村岡花子さんの、若い頃の顔画像(写真)がとても綺麗だと注目されていますね(*^^*)
彼女の生い立ちから生涯までを、NHK連続テレビ小説『花子さんとアン』で女優の吉高由里子さんが演じ、全話の平均視聴率は22.6%と歴代のNHK連続テレビ小説の中では高い視聴率を記録しました。
この朝ドラは小説「赤毛のアン」を日本語に翻訳した翻訳家・村岡花子さんの半生をもとにして明治~大正~昭和の女性たちを描いたドラマです。
吉高由里子さんの着物姿が、とてもかわいらしかったですよね^^
この『花子とアン』は、2021年1月から再放送されており、見ていない方はもちろん、見た方も、7年ぶりの放送ですから、ぜひ視聴してみてはいかがでしょうか(*^^*)
今回は、村岡花子さんの若い頃の顔画像(写真)や、生い立ち~生涯についてと昔は養女で美人だった話などについてご紹介していきます。
スポンサーリンク
目次
村岡花子さんの若い頃の生い立ちをご紹介!
「赤毛のアン」いがらしゆみこ
「赤毛のアン」から「アンの愛情」までを漫画化した作品です。
赤毛のアンシリーズ(アンブックス)は村岡花子語訳で全巻読んでいる程好きなのですが、漫画としてこの作品は最高です。幼少期、アンブックスと共におねだりして揃えてもらった思い出の作品です。 pic.twitter.com/sM6ayLQ6p4— 伽羅眞ゐ子@琉球風ファンタジー (@KaraMaiko_write) January 8, 2021
村岡花子さんの若い頃の生い立ち情報をご紹介します。
1893年(明治26年)に山梨県甲府市に生まれます。
旧姓・本名は「安中はな」で、【村岡花子】は、のちのペンネームとして使用していた名前です。
そして、5歳の時に家族と共に東京へ移住し、10歳で公立小学校から東洋英和女学校に編入しました。当時、私立の学校に入ることはそんなに簡単なことではありません。
村岡花子さんの若い頃の幼少期からの利発で才能ある一面に期待した父親が、多方面で奔走して入学を実現させたのです^
家族と一緒に写った、楽しい顔画像(写真)は無く日々勉強に忙しい毎日を送っていたのでしょうね。
英語や日本の古典文学を学び、この頃から知人の勧めで童話を執筆するようになり、同時に翻訳家への夢も抱くようになります。
これが、村岡花子さんが翻訳家としての道に進む第一歩となるのですね(*^^*)
そして、生い立ち情報は1913年に二十歳で東洋英和女学校高等部を卒業し、山梨英和女学校で英語教師として勤務します。
その間も、童話や少女小説の執筆を続け、1917年に銀座の出版社「教文館」の編集者へ転職し、村岡花子さん初の本『爐邉』(ろへん)』を出版しました。
爐邉(ろへん)とは「囲炉裏(いろり)のそば」という意味です。
一家が集まってみんなで読める家庭向きの読み物、というコンセプトの本なんだそうですよ。
村岡花子さんの人柄や思いが伝わるタイトルですね^^
村岡花子さんの生涯をご紹介!
村岡花子さんの、生涯をご紹介します。
1919年に印刷会社を経営する村岡敬三と結婚します。
実は二人が恋に落ちたときには、敬三は妻帯者でした。許されない恋だったんですね><
敬三の離婚後、無事に二人は結婚して翌年に男の子を授かります。
ですがなんと、5歳のときに病気で生涯を閉じてしまうのです。
5歳なんて若すぎますよね><
傷心の村岡花子さんでしたが、この息子の事をきっかけに、日本の子供たちに英語児童文学を翻訳して伝えようと決意します。
そして、本格的に翻訳者としての道を進むことになります。
村岡花子さんが「赤毛のアン」の原書を、カナダ人宣教師から託されたのは1939年。
ちょうど第二次世界大戦が始まった年です。
戦時中も、原書と翻訳原稿を肌身離さず、空襲警報が鳴るとそれを持って防空壕に避難していたそうです。
すごい熱意ですよね(*^^*)
村岡花子さんの、若い頃の顔画像(写真)も戦火でいくつか焼失してしまったのかもしれません><
終戦を迎えた1945年には翻訳は完成していたものの、戦後の混乱で出版するには至らず、やっと1952年に「赤毛のアン」が出版されベストセラーとなりました。
原書を手にしてからなんと13年。
若い頃の生い立ちから、波乱万丈な人生があったお陰か、そんなに時間がかかっていたなんてびっくりですね。
その後も様々な活動を続け、1960年には、児童文学に貢献したことを評されて藍綬褒章を受けます。
そして、村岡花子さんの生涯は1968年に75歳で旅立ちました。
スポンサーリンク
村岡花子さんの若い頃の顔画像(写真)!
村岡花子さんの、若い頃の顔画像(写真)をご紹介します。
どれも、仕立ての良さそうな着物を着ていて、髪も綺麗に結われていて上品な印象です(*^^*)
見るからに育ちが良さそうで、さすが東洋英和女学校出身といった感じですね^^
なにせ、子供の頃の生い立ちでは、公立学校から私立の学校へ転校していますから、学校中の異性から可愛いと思われていたのではないでしょうか(笑)
私だったら、学校を転校すると、また一から友達を作らないといけなくなるので、絶対に嫌です(笑)
だけど、村岡花子さんは自分の人生を良くする為に、一生懸命に勉強をしていて偉いなと思いました。
そして、村岡花子さんは知性も感じられ、英語教師をやっていたというのもわかる気がします。
きっと熱心に英語を教えてくれる素敵な先生だったんでしょうね^^
村岡花子さんの若い頃の顔画像(写真)は美人と可愛いどっち?
村岡花子さんの、若い頃の顔画像(写真)は美人と可愛いのどっちを言われていたのでしょうかご紹介します。
写真を見た印象だと、切れ長の目が印象的ですね。
ですので、可愛いというよりは美人と言った方がいいかもしれません^^
当時は、写真撮影は貴重だったので、普段通りの笑顔というよりは、すました顔で撮影するのが一般的なので、若い頃の笑顔の顔写真(画像)はあまり残されていません。
なので、大人っぽい印象で写りがちなんですが、そんな中で一枚、笑顔で写っている写真がありました^^
それを見ると、歯を見せて穏やかに微笑んでいる感じが、可愛いらしい印象も受けます。
美人で勉強もできて、童話を書いたり翻訳をしたりと様々な活動をしている村岡花子さんに、
敬三が惹かれて恋に落ちたのもとてもわかる気がしますね^^
村岡花子さんの若い頃の評判について
村岡花子さんの若い頃の、評判についてご紹介します。
子供のころから活発で頭も良かったと言われています。
小学校に通っているときから、心象風景を短歌で表現して楽しんでいたため、そんな才能を見込んで10歳で東洋英和女学校に編入しました。
感受性豊かな村岡花子さんは、きっと女学校での勉強は生涯の中できっと楽しかったでしょうね(*^^*)
在学中に童話を執筆し始めたきっかけは、同じ女学校に通っていた翻訳家からの勧めでした。
熱心に文学を学んでいる、若い頃の村岡花子さんの様子を見ていたり、執筆の才能があると感じたからこそ、勧めたのでしょう。
普通、平凡な人には、そのような誘いはありませんからね。
もしかしたら、村岡花子さんは学校内でも一目置かれる存在だったのかもしれません。
学校卒業後に、英語教師となったり、出版社の編集者となった経歴からも、周囲から信頼されていたことがわかりますね^^
村岡花子さんは昔は養女だった?
村岡花子さんは、昔は養女だったのかをご紹介します。
安中逸平・てつ夫妻の長女として誕生しました。
実の両親のもとに産まれていますから、養女ではありません。
家族構成は8人兄弟でしたが、実は子どもの頃の生い立ちで東洋英和女学校に入学し、高い教育を受けたのは唯一村岡花子さんだけです。
貧しい家だったので、全員が同じような教育を受けられたわけじゃなかったんですね><
きっと村岡花子さんは家族全員の期待を一身に背負っていたのでしょう。
村岡花子さんは、若い頃に息子を5歳で失ってから、残念ながら子供に恵まれませんでした。
戸籍上、村岡みどりという娘がいるのですが、実はみどりは、村岡花子さんの妹の娘です。
つまり養女なんです。
偶然にも、みどりが、帰らぬ人になった長男と同じ誕生日だったため、深い縁を感じて引き取ったそうなんです。
その後、みどりも村岡花子さんと同じように、児童文学の発展のために活動します。
素晴らしい親子関係ですよね^^
【村岡花子の関連記事】
村岡花子さんの若い頃のまとめ
村岡花子さんの生い立ち情報として、1893年(明治26年)に山梨県甲府市に生まれます。
10歳で公立小学校から東洋英和女学校に編入し、英語や日本の古典文学を学び、この頃から知人の勧めで童話や少女小説を執筆するようになります。
そして、若い頃に東洋英和女学校高等部を卒業すると、山梨英和女学校で英語の先生として勤務しました。1917年に銀座の出版社「教文館」の編集者へと、仕事を変え村岡花子さんは初めての本を著作します。
本のタイトルは、『爐邉』(ろへん)』を出版し評判も良かったようです^^
1919年に印刷会社を経営する村岡敬三と結婚、男の子を授かりますが、不幸にも5歳のときに帰らぬ人になりました。
傷心の村岡花子さんでしたが、この子どもの事をきっかけに、日本の子供たちに英語児童文学を翻訳して伝えようと決意します。
そして、本格的に翻訳者としての道を進むことになります。
その後、「赤毛のアン」の原書を託された村岡花子さんは、第二次世界大戦という混乱の中でも、強い意志を持って翻訳を続け、1952年に「赤毛のアン」を出版して大評判となりました。
原書を手にしてからなんと13年。
なんとしても翻訳をして日本の子供たちに届けたいという、村岡花子さんの強い思いが感じられますね。
若い頃の顔画像(写真)を見ると、可愛いというよりも美人な雰囲気がありました^^
その後も様々な活動を続け、1960年には、児童文学に貢献したことを評されて藍綬褒章を受けます。
そして、1968年に75歳で生涯を終えました。
今現在、わたしたちが手軽に外国の童話や物語を読むことができるのも、村岡花子さんのような翻訳家たちの努力や文化を伝えたいという思いがあってこそでしょう。
なので、感謝しなければいけませんよね^^
村岡花子さんの若い頃の顔画像(写真)!生い立ち~生涯をご紹介!昔は養女で美人だった
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
スポンサーリンク
コメントを残す