近藤富枝の経歴・wikiプロフ!死因について!生い立ち~人生を紹介

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近藤富枝さん(旧姓水島富枝さん)は、元NHKの女子アナウンサーで作家やエッセイストでもあります。

 

経歴・wikiプロフ情報や、死因などが知りたい人は多いのではないでしょうか。

 

著書には、大正・昭和の文壇史や平安・明治・大正の服飾史、王朝継ぎ紙、『源氏物語』関連のもの、ミステリーなどがあります。

 

たくさんの作品を世の中に残してこられた、偉大な人物ですがあまり公には知られていません。

 

今回は、近藤富枝さんのwikiプロフ・経歴情報や、死因と生い立ち~人生などについて紹介していきます。

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近藤富枝のwikiプロフ!

近藤富枝さんのwikiプロフを紹介します。

幼少期から身近にラジオがあったと言われています。

 

ラジオで評判になったアナウンスは、たいてい聞いていました。

近藤富枝さんは女学生の頃、あるアナウンサーの見事な朗読を聞いて心を奪われたのだとか。

 

だから、熱中していた演劇の道に進めなくても就職するのなら、NHKもいいなと考えていました。

NHKアナウンサーになったきっかけは、日本放送協会が女子放送員を募集しているとラジオで聞いたことでした。

 

近藤富枝さんのwikiプロフ情報で、1944年(昭和19年)の年齢が22歳のときでした。

 

その時は、文部省で働いていたものの、お役所の仕事は肌に合わないと感じていた頃だったのだとか。

 

なので、迷いなく採用試験を受けたところ、見事合格し採用されました^^

 

近藤富枝のwikiプロフィール

  • 名前:近藤富枝(こんどうとみえ)
  • 本名:近藤富枝(旧姓:水島富枝)
  • 生年月日:1922年(大正11年)8月19日生まれ
  • 年齢:享年93歳
  • 身長:150cm後半台(予想)
  • 体重:40kg後半台(予想)
  • 国籍:日本
  • 星座:しし座
  • 血液型:不明
  • 趣味・特技:執筆活動

 

 

近藤富枝さんの結婚した旦那(夫)さんは、近藤新治さんという男性です。

土門周平という名で執筆活動をしていた経歴があります。

 

近藤新治さんは、東京出身の元軍人ですが終戦後は様々な職業を経験してきました。

 

警察予備隊に入隊して陸上自衛隊に勤務し、富士学校教官などを経て防衛研究所戦史編纂官になりました。

 

退官後も防衛研究所、自衛隊幹部学校で軍事戦略思想史、戦争指導史を講義します。

 

勤務のかたわら執筆した時代小説でサンデー毎日大衆文藝賞佳作に輝きました。

その後も多く執筆していて、本になっています。

近藤富枝の経歴!

近藤富枝さんの経歴を紹介します。

 

若い頃から、勉強熱心で色んなことや物に好奇心旺盛だったので頭を良く使う才色兼備な女性だったでしょうね(*^^*)

 

認知症とか重い病気になったりも無く、死因は大病を患ったりはしていないので天寿を全うする形で人生を終え、きっとずっと最後まで頭を働かせていたのでしょう。

 

 

近藤富枝の経歴情報

  • 1922年(大正11年)8月19日に、東京日本橋矢ノ倉の商家に生まれました
  • 1940年(昭和15年)東洋高等女学校を卒業し、東京女子大国語専攻部に入
  • 1943年(昭和18年)戦時中のため、東京女子大国語専攻部を繰り上げ卒業します
  • 1943年(昭和18年)文部省教学局国語課に勤務
  • 1944年(昭和19年)NHKの第16期アナウンサーになりました

 

  • 1945年(昭和20年)敗戦を機に退職します
  • 1946年(昭和21年)5月に近藤新治さんと結婚しました
  • 1963年(昭和38年)『週刊朝日』のルポに『私の八月十五日』を投稿したところ特選となり、文筆業を開始
  • 1968年(昭和43年)7月『永井荷風文がたみーほろびし東京の歌』を刊行しましたが、これが最初の著書です

 

  • 1979年(昭和54年)11月『王朝継ぎ紙研究会』を設立し、主宰者となりました
  • 1981年(昭和56年)5月NHK朝の連続ドラマ『本日も晴天なり』のモデルとなり、翌年4月までテレビ放送されました
  • 1986年(昭和61年)4月武蔵野女子大学(現武蔵野大学)にて教鞭を執ります
  • 1993年(平成5年)3月武蔵野女子大学を退職
  • 2016年7月24日家族、親族に看取られ老衰のため逝去されました

 

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近藤富枝の死因について

近藤富枝さんの死因を紹介します。

wikiプロフ情報とのところにも年齢を記載していますが、2016年(平成28年)7月24日未明に93歳で天国にへ逝かれました。

 

逝去する数ヶ月前から咳が続くなど体調を崩していました><

また、胸骨や腰椎を圧迫骨折していて、自力歩行が困難でした。

 

近藤富枝さんの死因は、老衰だと言われています。

入院していた時期もありましたが、それでも時々講義を行っていました。

 

体調が戻らなかった時でも、事前に録音したものを流して補足部分をベッドで寝たまま生中継したのだとか。

 

7月には、本人の希望で自宅療養していましたが、22日夜に血圧などの数値が悪化したため緊急入院となりました。

 

23日には、孫やひ孫も病院にかけつけ面会されたと言われています。

もし、近藤富枝さんの死因が病気だったら、静かに看取るというのは困難だったのではと思います。

 

24日未明、家族に見守られる中、静かに永眠されました。

老衰だったからこそ、家族が病院に駆けつけることができて、きちんとお別れをすることができたのではないでしょうか。

 

近藤富枝さんは天国に旅立つ直前まで、寝たきりの状態でも講義をするなんて、すごく責任感がありますよね。

それほど、講義は本当に大切なものだったのですね。

近藤富枝の生い立ちについて

近藤富枝さんの生い立ちを紹介します。

1922年(大正11年)に東京日本橋矢ノ倉の商家の生まれです。

 

家は錦物問屋をしていました。

1929年(昭和4年)、父親が破産し一家は離散となりました。

 

近藤富枝さんの子供の頃の生い立ちは、親や兄弟と離れて、1人で父方の祖父母の家に引き取られて東京田端で育ちます。

 

東洋高等女学校を卒業後、東京女子大学国語専攻部へ進みます。

在学中に演劇に夢中になり、1942年(昭和17年)に新劇団『芸術小劇場』の研究生になりました(*^^*)

 

 

そののち、『文学座』の研究生として活動します。

1943年(昭和18年)大学卒業後、文部省の教学局国語課に勤務します。

 

1944年(昭和19年)から、日本放送協会でアナウンサーとして1年余り勤務しました。

 

1945年(昭和20年)敗戦を機に退職します。

 

1946年(昭和21年)に、田端での家作の元住人で元軍人の近藤新治さんと結婚しており、晩年まで仲睦まじく夫婦生活を営んでいたのだとか^^

近藤富枝の人生について!

近藤富枝さんの人生(生涯)を紹介します。

結婚後、約17年間専業主婦をしていました。

 

1963年(昭和38年)週刊朝日のルポに、『私の8月15日』を投稿し特選に選ばれまているのですね(*^^*)

 

他の雑誌でも入選多数となり、主婦の友社の専属ルポライターとなって、文筆業に入ります。

 

初めは、明治、大正の文学者について調査や研究を行ってきました。

 

『永井荷風文がたみ―ほろびし東京の歌』が宝文館より発売されましたが、これが近藤富枝さんにとって最初の著書でした。

 

その後は、着物や布についてのエッセイを数多く書いている経歴があります。

『宵待草○○事件』『鹿鳴館○○事件』というミステリー作品もあります。

 

近藤富枝さんは、1986年(昭和61年)から1993年(平成5年)まで武蔵野女子大学で教鞭をとりました。

近藤富枝の評判について

近藤富枝さんの評判を紹介します。

 

執筆した本は、どれも素敵で温かみがありますね(*^^*)

中でも、紫式部や源氏物語を解説したような本は、難しい内容を著者の独特な視点から切り込み、新しい魅力を読者に気づかせてくれます。

 

だから、楽しくてわかりやすいからスラスラと読める作品が多いでしょう^^

 

近藤富枝さんの評判は、以下のような感想がありました^^

 

  • 『紫式部や源氏物語がわかりやすく書かれていて、少し身近なものに感じた。』

 

  • 『田端に住んだことのある著者の取材を重ねた文章は、作家たちがそこにいるような人間らしい温かみがある。』

 

  • 『着物に関する著書が多く、着物の知識が凄くある人だと思う。』

 

  • 『たった1冊、ほんの1行で何もかもが変わったように感じたあの日をいつまでも覚えている。』

 

  • 『「紫式部の恋」を10年くらい前に読んだが、紫式部や源氏物語について影響を受けた。』

 

  • 『源氏物語の既成概念を論理的に打ち破る素敵な本が多い。』

 

 

【近藤富枝の関連記事】

近藤富枝の若い頃の顔画像(写真)!学歴(出身高校・大学)や兄弟(弟・妹)はいる?

 

 

近藤富枝のまとめ

近藤富枝さんは、1922年(大正11年)8月19日に東京日本橋矢ノ倉の錦物問屋の娘として生まれました。

 

しかし、1929年(昭和4年)に父親が破産したため、一家は離散となります。

若い頃の生い立ち情報は、1人で父方の祖父母の家へ引き取られ、東京田端で育ちました。

 

大学生の頃には、演劇に熱中し将来その道に進むことも考えていたのだとか。

卒業後は文部省に就職します。

 

文部省のお仕事が自分に合わないと感じていた時に、NHKで女子アナウンサーを募集していることを知りました。

採用試験を受けて見事合格し、約1年間務めた経歴があります。

 

1946年(昭和21年)に、元軍人の近藤新治さんと結婚します。

育児などもあったため、近藤富枝さんは17年ほど専業主婦をしていました。

 

1963年(昭和38年)週刊朝日のルポ『私の八月十五日』が特選に選ばれるなど、各雑誌で入選が多数です。

 

これをきっかけに、主婦の友社の専属ルポライターになり、文筆業を始めます。

その後、たくさんの作品を世に残しました。

 

1981年(昭和56年)には、NHK連続テレビ小説『本日も晴天なり』の主人公のモデルになりました。

 

1986年(昭和61年)から1993年(平成5年)にかけて、武蔵野女子大学で教職に就いています。

2016年(平成28年)7月24日、死因は老衰のためその生涯をとじました。

 

 

近藤富枝の経歴・wikiプロフ!死因について!生い立ち~人生を紹介

についてまとめてみました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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