篤姫(天璋院)の若い頃の顔画像(写真)!死因や生い立ち~人生をご紹介!

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篤姫(天璋院)は、薩摩藩島津家一門の娘として生まれています(*^^*)

 

若い頃の顔画像(写真)や死因などが気になる方は多いのではないでしょうか。

 

幼い頃から利発で人並み外れた感性と器量を持っていて、薩摩藩当主 島津斉彬に才能を見出されます。

 

その後、島津斉彬の養女になった篤姫(天璋院)は、徳川家第13代将軍・徳川家定の正室として輿入れします。

 

しかし、病弱だった徳川家定はすぐに他界します><
結婚生活はたったの1年9カ月でしたので、彼女の生い立ち~人生は色々と波瀾万丈なことがありました。

 

篤姫は天璋院に改名した後も、徳川家に生涯を捧げることを決意し、のちに「江戸無血開城」という歴史的に大きな責任の一遍を担います。

 

幕末から明治維新へと激動の時代をどう生き抜いたのでしょう。

 

2021年2月14日(日)から放送スタートした、大河ドラマ「青天を衝け」では、篤姫役を上白石萌音さんが演じられています^^

 

今回は、篤姫(天璋院)の若い頃の顔画像(写真)や死因と、生い立ち~人生などについてご紹介していきます。

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篤姫(天璋院)の若い頃の顔画像(写真)!

篤姫(天璋院)の、若い頃の顔画像(写真)をご紹介します。

 

十二単姿の若かりし頃のお写真を拝見する限り、目もパッチリされて、鼻筋も高くてかなりお綺麗な女性です(*^^*)

 

NHK大河ドラマで「篤姫」を演じられた宮崎あおいさんや、北川景子さんもお二人ともお綺麗ですよね^^

 

篤姫でインターネット検索すると、けっこうお年を召されてからの写真の方が出回っていて、「ちょっとイメージと違うんですけど。」ってびっくりしちゃいます。

 

利発な性格で薩摩藩主・島津斉彬の養女として、鹿児島県からはるばる江戸城にやってきた篤姫。

 

江戸時代の最後を見届けた後も鹿児島県に帰る選択肢は選ばなかった篤姫。

 

宮崎あおいさんが演じた、篤姫が「女の道は一本道!」と言ったセリフは、私が一番好きだったセリフなんですよね^^

 

この言葉が表す通り、篤姫(天璋院)の若い頃の顔画像(写真)を見ると、徳川家として生涯生きると決めた女の覚悟を感じさせる凛とした表情をされています。

 

「好きな歴史上の女性人物ランキング」では「篤姫」はいつもトップ10入りしていますよね♡

 

第13代将軍・徳川家定の正室として夫を献身的に支えつつ、堂々と波乱の時代を生き抜いた篤姫に、現代人も心を打たれるのでしょう。

篤姫(天璋院)の若い頃の顔画像(写真)は美人と可愛いどっち?

篤姫(天璋院)の若い頃の顔画像(写真)は、美人と可愛いのどっちを言われていたのでしょうかご紹介します。

 

以前、NHK大河「篤姫」で篤姫を演じられた宮崎あおいさん、「西郷どん」で篤姫を演じられた北川景子さん。

 

お二人の演じられた篤姫が今もなお、頭に焼きついている方も多いんじゃないでしょうか。

 

お二人とも美人だけど可愛いらしさもあって「美人と可愛い。片方だけ選べなんてできない!」って感じです(笑)

 

実際、篤姫(天璋院)の若い頃の顔写真(画像)は、とっても美人なんですが目が大きいからか、どこか愛らしさも兼ね備えていらっしゃいます。

 

もし「篤姫街頭100人アンケート」を実行したなら、可愛いのか美人なのかは51票対49票くらいでかなりの接戦になることが予想されます( *´艸`)

 

私もかなり悩みましたが、「可愛い篤姫 ♡」に清き1票を投じさせていただきます

 

2021年2月14日(日)から始まったNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、篤姫役を上白石萌音さんが生い立ちから人生を演じられていて、現代の篤姫もとても可愛いと思います(*^^*)

 

今ノリに乗ってる女優の上白石萌音さんが、演じる篤姫(天璋院)もかなり注目です♪

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篤姫(天璋院)の若い頃の生い立ちをご紹介!

篤姫(天璋院)の若い頃の生い立ち情報をご紹介します。

 

鹿児島県で今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女として生まれています。

「今和泉家」は薩摩藩島津家の分家という立ち位置です。

 

薩摩藩の中では有力一族で、現代で例えるなら裕福な家柄のお嬢様です(^^)/

そして、篤姫(天璋院)は桜島を見ながら元気にすくすくと育ちます♪

 

しかし、薩摩藩主・島津斉彬の養女となったことから人生が大きく動き出します。

 

当時の薩摩藩の脅威だった海外の黒船に対抗するため、政治的に江戸幕府とのパイプを作りたいと考えていた島津斉彬が、篤姫を将軍家のお嫁として立候補するんです。

 

 

篤姫(天璋院)の若い頃の生い立ちは、完全に政略結婚と言わざる終えませんが、篤姫は「養父の島津斉彬の言うことなら。」と江戸に行くことを潔く決意します。

篤姫(天璋院)の人生をご紹介!

篤姫(天璋院)の、人生をご紹介します。

 

「波乱万丈」の一言につきますが、当時の薩摩藩(今の鹿児島県)の一門の娘として生まれ薩摩藩当主の養女になります。

 

ここから天璋院の生い立ちから人生が目まぐるしく動き出します。

 

当時、江戸幕府に進出を狙っていた篤姫の養父で薩摩藩主・島津斉彬が政略結婚のため、徳川家将軍の嫁として篤姫を立候補します。

 

その後、正式に江戸時代に代々続く徳川家第13代将軍・徳川家定の正室として輿入れした篤姫(天璋院)は、世話役女中の幾島からスパルタ教育を受け、若い頃から大奥の独特なしきたりを学びます。

 

徳川家第13代将軍・徳川家定は生まれつき体が弱かったこともあり、篤姫との間に跡継ぎが生まれないまま、その後すぐに他界されました><

 

結局、結婚生活はわずか1年9か月だったと言われています。
夫婦揃って、仲睦まじい顔画像(写真)も撮る暇もなかったでしょう。

 

篤姫はその後、戒名し「天璋院」として生きることになります。

 

まだまだ若い頃に天国に旅立っていますから、死因の病気が悪化していかければ長生きして日本の歴史を変化させるくらいの力量を持っていた女性だったのではないでしょうか

 

本来であれば夫が亡くなった後、故郷の鹿児島県に戻ることも可能だったのですが、徳川家に生涯を捧げると心に誓いそのまま江戸城に残ります。

 

第13代将軍・徳川家定が天国に旅立った後に、徳川家茂が14代将軍に就任します。

 

しかし政権は長くは続かず、そのまま「徳川家最後の将軍」と言われる第15代将軍・徳川慶喜が就任します。

 

当時、鎖国制度を敷いていた日本には、次々と海外から黒船が押し寄せ脅威に日々怯える武士たちでした><

 

徳川家の威力も弱まっていた最中、篤姫(天璋院)の故郷である鹿児島県薩摩藩の武士たちが、江戸城を攻めようとします。

 

しかし、篤姫(天璋院)は、その際も徳川家としての姿勢を崩しません。

 

江戸城の総攻撃が噂される中、篤姫(天璋院)の働きもあり誰も怪我することなく江戸城を空け渡した「江戸無血開城」という大きな役割を果たします

 

こうして、長らく続いた江戸時代は幕が下り明治時代が始まったんですね^^

 

一人の女性が激動の時代のど真ん中で人生を切り開き、堂々と活躍したなんて本当にかっこよすぎます。

篤姫(天璋院)の若い頃の評判について!

篤姫(天璋院)の、若い頃の評判についてご紹介します。

子供の頃は、一子(かつこ)という名前だと言われています。

 

大変利発で活発な子での持ち主で、人並み外れた感性と器量を持っていました。

 

篤姫(天璋院)の実の父で今泉家一門の当主だった忠剛も「この子が男の子だったらよかったのに」と言ったとか言わないとか

 

幼少期の篤姫(天璋院)から、将来大物になるただならる素質を実父の忠剛は感じ取っていたのかもしれません。

 

そんな篤姫(天璋院)の多彩な感性や器量を見出した薩摩藩当主の島津斉彬も、人を見る目があるという意味で感服いたします(^^♪

 

島津斉彬と出会うのも、「江戸無血開城」に向け神様が運命的に引き合わせたのでしょうね。

篤姫(天璋院)の死因について!

篤姫(天璋院)の死因についてご紹介します。

心臓の持病の悪化からの脳梗塞だと言われています><

 

徳川宗家本邸で倒れたあと、意識不明のまま47歳で逝去されているので、人生の折り返し地点ですが若すぎますよね。

 

篤姫(天璋院)が、天国に旅立った1883年は明治16年です。
ということは「江戸無血開城」の最中は当時30歳前後だったということですよね。

 

そんなにお若い年齢で、激動の時代を乗り越えられているので、本当に肝の座った芯の強い女性だったんだろうなと思います。

 

明治維新後は、徳川家の後継者を育てるということに熱心に取り組まれていたと言われています。
生い立ちから人生の最後の最後まで、嫁いだ家の為に力を尽くしています。

 

結局、篤姫(天璋院)は嫁いでから一回も故郷の薩摩(鹿児島県)には、里帰りすることはなかったと言われています。

 

死因が病気でとても残念ですが、「一度決めた道は、決して振り返らない」という固い決意は、私も篤姫(天璋院)の生き方に少なからず勇気づけれた一人です。

 

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篤姫(天璋院)のまとめ

篤姫(天璋院)の若い頃の顔画像(写真)は、目が大きいので目力が強いですが美人というより私は可愛い印象を受けました(*^^*)

島津家一門の娘として生まれた、子供の頃の生い立ちから人並み外れた感性と器量を見出され薩摩藩当主 島津斉彬の養女になり、徳川家第13代将軍・徳川家定の正室として輿入れします。

 

しかし、徳川家定は病弱のため若くして他界したため、結婚生活はわずか1年9が月で幕を閉じます。

篤姫は天璋院に改名してからも徳川家に人生(生涯)を捧げることを決意し江戸城に残ります。

 

その後、海外から次々と押し寄せる黒船の脅威に、篤姫(天璋院)の生まれ故郷である薩摩藩が立ち上がり、徳川家を滅ぼそうと計画します。

 

死因は、脳梗塞という病気で47歳の若さで天国に旅立たれています。

生前は、「江戸無血開城」という歴史的に大きな責任の一遍を担ったり、女性ですが男性に勝るとも劣らない華々しい活躍をしていました。

 

幕末という激動の時代をどう生き抜いたのか、今もなお色褪せない歴史の一ページとして、これからもずっと語り継がれていくのでしょうね。

 

篤姫(天璋院)の若い頃の顔画像(写真)!死因や生い立ち~人生をご紹介!

についてまとめてみました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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