村岡花子さんの顔画像(写真)が美しいと注目されていますね(*^^*)
NHK連続テレビ小説「花子とアン」は、翻訳家でもある村岡花子さんのゆかりの地や生涯もとにしたドラマです。
現在、再放送中ですが村岡花子役を、女優の吉高由里子さんが演じていましたよね^^
若い頃から、波乱万丈の人生だったわけですが死因や記念館情報なども気になる方は多いのではないでしょうか。
村岡花子さんは、翻訳家としてとても有名ですが、どのような作品を翻訳されていたか知っていますか(*^^*)
有名な作品は下記のようになります。
- 赤毛のアン
- ジャックと豆の木
- フランダースの犬
- ふしぎな国のアリスなど
名前は知らなくても、こうして作品名を並べてみると誰もが知っているという作品が多いですよね^^
ですが実は、村岡花子さんは翻訳家として知られる前に、「ラジオのおばさん」として子供向けのラジオ番組に出演もしているのです。
連続ドラマの中でも主人公がラジオ出演していましたよね(^^)
実はこれ、実話をもとにしたエピソードだったのです。
今回は、村岡花子さんの顔画像(写真)や、死因・ゆかりの地や記念館情報などについてご紹介していきます。
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目次
村岡花子の顔画像(写真)は可愛い?
https://twitter.com/64SzuakWQZdl2OR/status/1348895765326831616?s=20
村岡花子さんの顔画像(写真)は、可愛いのかご紹介します。
外国の文学書を日本語に翻訳した女性です。
どのような作品を翻訳したのか、ご存じでしょうか(*^^*)
答えは「赤毛のアン」です^^
他にもたくさんの翻訳本がありますが、代表的な書籍と言えば「赤毛のアン」でしょう。
タイトルを聞けば「昔よく読んだ」や「読んでないけどタイトルは知っている」という反応になるのではと思います(^^)
そんな村岡花子さんは、どのようなお顔をされていたのでしょうか。
現在、村岡花子さんは1968年(昭和43年)に天国に旅立たれていますので、晩年の顔画像(写真)の印象からご紹介していきますね^^
村岡花子さんの晩年の顔画像(写真)を見ていると、「職人肌」という印象を受けました。
悪く言えば、ちょっと頑固な面もあるかもしれないなと思います(^^;
「明治から昭和」と、出身地やゆかりの地で激動の時代を生きてきた女性です。
何よりも、その当時は「女性は家庭に」という風潮があった時代でもあります。
村岡花子さんもご家族がいらっしゃいましたが、家族が理解してくれないと、おそらく翻訳家としても活動も難しかった時代でしょう。
また、旅行好きだったそうで、正直、死因が突発的な病気だったのですが、直前までは出かける計画を練っていたほどなんです。
そんな時代でもあったのですから、思いが強くなければきっと厳しかったはずです。
顔画像(写真)を見ると、そんな苦労がお顔に表れているのではないかなとも、私は思いました。
ですので、可愛いのかと聞かれたら、可愛いとはちょっと違うような気がするという印象ですね^^
村岡花子の現在の顔画像(写真)は美人と可愛いのどっち?
村岡花子さんの、現在の顔画像(写真)は美人と可愛いのどっちなのかご紹介します。
上記で、可愛いとはちょっと違うような…と少し疑問がありましたが、可愛いという言葉ではないふさわしい言葉がありました。
「美人」という言葉です。
可愛いの定義は、正直に言いますが、見た人が「可愛い」と思えば、その印象は可愛いで間違いないのです。
ですが、私は村岡花子さんの晩年の顔画像(写真)を見て、可愛いという印象は受けませんでした。
ならば「不細工なの?」と聞かれるかもしれませんが、それも違います><
私が見た印象は、「職人肌の女性」と上記でもご紹介しました。
顔の造作の美醜ではなく、「村岡花子さんの芯の強さがお顔に表れている」という印象です。
自分をしっかり持って、望む道をひたすら進んでいた女性は、可愛いというよりも美人という表現の方がしっくりくるような気がします^^
ですので、私が村岡花子さんの顔画像(写真)を見た印象は、可愛いよりも美人という表現の方がしっくりくるような気がします(*^^*)
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村岡花子の若い頃と現在の顔画像(写真)を比較!
村岡花子さんの、若い頃と現在の顔画像(写真)を比較しました。
昔の姿は、素敵な笑顔で歯を見せているものがありました(*^^*)
こちらまで笑顔になるような、朗らかな笑顔が印象的ですね^^
そして、村岡花子さんが山梨英和女学院で英語の教師をしていたころのものを見てみると、こちらも笑顔がとてもステキですね(^^)
若い頃と現在の顔画像(写真)を比べて見ると、どちらも「とても芯がしっかり通った朗らかな女性」という印象を受けます^^
昔から「文学」に親しみ、児童文学者としても名高い女性ですので何よりも「翻訳者」として、多くの文学作品を日本に広めて下さいました。
その影響力も凄まじく、現在では村岡花子記念館が出来たり、「花子とアン」の朝ドラ効果で縁の地に多くの観光客が来ている状況です(*^^*)
本になじみのない人でも、「赤毛のアン」という本の名前は知っているという人も多いでしょう。
昔から英語の授業はありますが、明治時代に生まれ・英語に触れる環境に恵まれていた人は少ないでしょう。
英語の本を翻訳できるだけの英語力と、それを日本語に置き換えるボキャブラリーの豊富さを身に付けることは、とても大変なことです。
村岡花子さんは、若い頃にその大変なことを成し遂げ、たくさんの外国の文学書を翻訳して日本の人たちが読みやすい様に翻訳していることは、本当に大きな功績です。
生い立ちから生涯まで、そのための苦労は、並大抵のことではなかったはずです><
私が、第一印象で晩年の顔画像(写真)を「職人肌」と表現しましたが、一つの道を貫いた結果が現れているのでしょうね(*^^*)
そして、村岡花子さんは若い頃から芯の強さを持ち続け、晩年はそれを成し遂げた強い女性なので「進化した姿」を写しているという印象です(^^)
村岡花子の死因をご紹介!
村岡花子さんの、死因をご紹介します。
死去理由は「脳血栓」でした><
なんでも、夕食の最中に倒れたそうで、突然帰らぬ人になっています。
おそらくご本人はおろか周囲の人たちにとっても、本当に突然のことだったのでしょう。
なぜなら、天国に旅立つ少し前から赤毛のアンの舞台「プリンスエドワード島」を訪れたいと、旅の計画を立てていたそうです。
2度ほど旅の計画はあったそうですが、その時々の事情により実現できていなかったそうですよ(>_<)
もしも、村岡花子さんの死因が突然の病ではなく、療養できる病気だったならば、そのような計画は立てることができなかったのではないかと思います。
「赤毛のアン」は、村岡花子さんの最初の翻訳書ですから、赤毛のアンの舞台であった「プリンスエドワード島」に対する思い入れは人一倍でしょう。
もしも、心のこりがあるとすれば「プリンスエドワード島」へ訪れることができなかったことではないでしょうか。
村岡花子のゆかりの地はどこ?
村岡花子さんの、ゆかりの地はどこなのかご紹介します。
人生のターニングポイントの場でも、あったと思いますが以下の場所が有名でした^^
【村岡花子のゆかりの地】
- 場所:東洋英和女学校
- 現住所:東京都港区六本木5丁目14-40
※今は「東洋英和女学院中学部・高等部」に名称が変更されています
キリスト教系の女学校で、村岡花子さんが10歳のころから通った学校です。
村岡花子さんは、山梨県の甲府市で生まれていますが、お父さんの仕事の都合で上京しています。
この東洋英和女学校に通っていた時に、カナダ人の宣教師から英語を学んでいますので、翻訳家になるための下地はここから作られ始めたのでしょう。
そして、この学校に在籍中の出会いも村岡花子さんに多大な影響を与え、翻訳家への夢が生まれています。
ここから、村岡花子さんは英語を学び・文学に触れ・翻訳家への道を歩き始めました。
若い頃の顔画像(写真)を見ると色々なスポットで写真撮っているものもあったり、まだ他にも、ゆかりの地は色々ありますが、ここが出発の場所であり、一番の縁の地と言える場所だと言えるでしょう^^
村岡花子記念館情報をご紹介!
村岡花子記念館情報をご紹介します。
記念館は「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」という名前が正式名称になります。
ですが、こちらの記事の中では「村岡花子記念館」と表記させていただきます。
村岡花子記念館は、以前は東京都大田区中央に1991年から2014年まで存在していた文庫館です。
この村岡花子記念館は、東京の大森にあるご自宅の書斎を予約制で公開されていました。
村岡さんの遺族の方たちが個人運営で主催されていました。
展示物は下記のようなものがあります。
- 村岡花子さんの書斎の再現
- 村岡花子さんの生い立ちから生涯までの時代の児童文学書
2013年から2014年にインターネット上のサイトに「資料貸し出しのため休館」と案内が出ていました。
そして、翌年には、蔵書や資料を母校である東洋英和女学院に移設準備のために一般公開はしていない」というアナウンスになっていたと言われています。
2015年にターニングポイントとなった場所「東洋英和女学院」の、本部・大学院棟の1階のロビーに新設されています。
こちらの展示物も下記のようになります。
- 村岡花子さんが若い頃から愛用の書き物机・書棚などの書斎の様子を再現
- 村岡花子さんの蔵書・所蔵品・翻訳作品・創作作品
村岡花子記念館(赤毛のアン記念館・村岡花子文庫)は、以前村岡花子さんが住んでいた自宅で公開されていました。
遺族の方たちが運営されていましたが、貴重な資料なので、記念館の存続にあたりいろいろな考えがあったのだろうと推測します。
今では、村岡花子記念館は、村岡花子さんの母校である「東洋英和女学院」に移転しています。
もしかしたら、在籍時代に使っていたノートや書籍も、寄贈されているかもしれませんね。
村岡花子さんの、翻訳家への夢を抱かせるたくさんの出会いがあった場所に戻ったのですから、何やら感慨深い思いがありますね(*^^*)
学校名に「女学院」とありますが、男性も普通に入れますので、お近くにお住いの人や興味がある人は、ぜひ足を運んでみてくださいね^^
【村岡花子の関連記事】
村岡花子のまとめ
NHK連続テレビ小説「花子とアン」の、モデル女優の村岡花子さんはとても美しいです(*^^*)
死因は「脳血栓」でした><
若い頃からの顔画像(写真)は、芯の強さを特に感じましたが、お年を召した晩年の写真は「職人肌」のような、一つのことを貫きやり遂げたようなお顔をされているという印象です。
明治から昭和という激動の時代を生きた人物です。
特にこの時代、女性なので更に自分の望む道を貫くことは、とても大変だったのではないでしょうか。
この機会に、村岡花子さんが翻訳した作品を読んで、ぜひ、ゆかりの地に思いを馳せてみて下さいね^^
村岡花子の顔画像(写真)!死因やゆかりの地をご紹介!記念館情報!
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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