江川幸の若い頃の顔画像(写真)を調査!生い立ち~生涯について!息子の嘉男がいた!

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江川幸さんは、村岡儆三さんの先妻ですが若い頃から病気がちでした><

 

昔の人は、結婚した嫁さんの身体が弱かったら、離婚する人も多かったと言われていますが、江川幸さんの場合は最後まで愛されています^^

 

きっと彼女の生い立ち~生涯までに人間的な魅力があったり、顔画像(写真)がとても美人だったりしたのでしょうね(*^^*)

 

朝ドラ「花子とアン」は、中園ミホさんが脚本で、歴代でも人気のある朝ドラと言っても過言ではありません。

 

夫は、村岡花子と出会った当時、江川幸さんと結婚していました。

そう、花子と儆三の恋愛は、道ならぬ恋、だったんですね。

 

道ならぬ恋というと、ついつい、花子と儆三の事に、目を引かれるのですが、その陰にいた先妻・江川幸とはどんな人物だったのでしょうか、気になる人も多いのではないでしょうか。

 

今回は、江川幸さんの若い頃の顔画像(写真)や、生い立ち~生涯についてと息子の嘉男(よしお)くんの事などについてご紹介していきます。

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江川幸の若い頃の生い立ちをご紹介!

江川幸さんの若い頃の生い立ち情報をご紹介します。

村岡儆三さんとの結婚は、大正4年(1915年)の事です。

 

婚約時期は儆三さんが28歳くらいの年齢で、江川幸の年齢はわかっていませんが、おそらく年下でしょう。

 

「幸」という名前の雰囲気からして、薄幸そうな細身の女性を想像してしまいます^^

 

人となりは、控えめでありながらも、ほほ笑みを絶やさないようなそんな人柄だったのでしょう。

 

普段から穏やかな表情をしている人って、顔画像(写真)を見るとニコニコしている姿も多いですよね(*^^*)

 

江川幸さんと、夫である村岡儆三の結婚のきっかけの一つとなったのは、信仰でした。
村岡家も江川家も、同じ指路教会の信徒だったのです

 

 

また、儆三の父・平吉と幸の父親は仕事上でもつながりがあったと言われています。

 

それ以前に、江川幸さんが若い頃に村岡儆三さんと面識があったのか、お互い望んでの結婚だったかは定かではありませんが、おそらく家同士が決めた結婚という線が濃厚でしょう。

 

現代となっては、双方が望んだ人と結婚するということが普通の事のようですが、当時は違いました。

 

そして、女性の立場はとても弱く、家長が白いものも黒と言えば、それに抗う事はとても難しいことだったんですよね。

 

今となっては考えられないですよね(>_<)
ですが、そういう時代だったのです。

こうして時代を振り返ると、今の時代の尊さを感じることができますね。

 

 

江川幸さんの、若い頃の生い立ち情報としては、大人しい雰囲気の女性で常に亭主の何歩か後を歩きながら夫の言うことを尊重したり、相手に合わせた生き方をしていたと言われています。

江川幸の生涯をご紹介!

江川幸さんの、生涯をご紹介します。

 

結婚翌年、長男の嘉男を授かりますが、間もなく幸が結核を発病します。
この当時、結核はとても危険な病気でした。

 

子供に感染したりなどしたら大変です><

 

当然、江川幸さんには幼い子供の世話もままならず、療養のため実家に帰り、夫である儆三とも嘉男とも、別居を余儀なくされます。

一番かわいい盛りに、我が子と離れるとは、辛い経験ですよね(>_<)

 

当時、儆三は新しく立ち上げた福音印刷・銀座店の運営に忙しい状況です。
そのため、家族3人で暮らした家を引き払い、幼い嘉男を村岡家・長兄の十太に預けました。
儆三は、神田で一人暮らしを始めたそうです。

 

この時、息子の嘉男君はお父さんとも離れ離れになってしまうんですね。
仕事だから仕方がないとはいえ、ちょっと辛いですよね><

 

その別居は3年続きます。
その間、村岡儆三さんは何度か江川幸さんとの離縁を提案されます。

 

結構、江川幸さんの生い立ちから生涯は波乱万丈な事がわかりますよね。

 

そして、江川幸さんの父親である江川氏は「娘があんな体になるとは、大事なご子息に大変ご迷惑をおかけした」と、儆三の父に、謝罪の言葉を伝えていたと言われています。

 

 

現代からは、考えられないことですが、その当時は、結婚した嫁(妻)が病気や不妊となった場合は夫の方から離縁されるケースも多かったようです。

 

なんだか悲しいですね><

 

江川氏の言葉を受け、父である平吉は、儆三に息子の嘉男を兄である十太の養子に入れ、別れることも提案。
しかし、儆三は首を縦に振りませんでした。

 

病気になったからと言って離縁するなんて、人道的ではない。
儆三はそう思っていたんですね。

 

そう、後に妻となる村岡花子と恋に落ちるまでは……。

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江川幸の若い頃の顔画像(写真)を調査!

江川幸さんの、若い頃の顔画像(写真)を調査しました。

 

後妻となる花子さんは、ドラマのイメージでは、職業婦人でもあり、はきはきした活発なイメージでした。
村岡花子さんの残っている写真では、芯の強そうなしっかり者の女性という印象です(*^^*)

 

そのことから考えると、江川幸さんはついつい逆の姿を想像してしまいますね。
とすると、穏やかで、控えめ、守ってあげたいと思えるような女性というところでしょうか^^

 

また、外見については、村岡花子をモデルにした「花子とアン」では、この江川幸にあたる人物、香澄を中村ゆりさんが演じていましたね。
物語の中では「美しい人」と語り手のコメントがありました。

 

江川幸さんの、若い頃の顔画像(写真)を見るより、きっと実物のほうが何杯も美しい人だったんでしょうね(*^^*)

 

そして、実は儆三が江川幸さんの両親から離縁の申し出を受けても、承諾しなかったのは、幼いころからキリスト教に親しんできた信仰心の為と言われます。

 

別れなかった意図は、実は儆三も奥さんの事をどこか大事に思っていたのでしょうね^^

江川幸の若い頃に息子の嘉男と、一緒に写っている顔画像(写真)を調査!

江川幸さんの若い頃に息子の嘉男と、一緒に写っている顔画像(写真)を調査しました。

 

出産後、結核にかかってしまったのであれば、我が子であれど、幼い子供と顔を合わせることも難しかったのではないでしょうか><

我が子の成長を一番近くで見ることができない。
江川幸さんの心中を思うと、胸が苦しくなってしまいます。

 

嘉男、という名前からは、私は坊主頭の元気な男の子が浮かびます。
村岡儆三さんの若い頃の顔写真(画像)を見ると、それはハンサムですから、嘉男にもその片鱗があったのでしょう^

 

江川幸と村岡儆三が結婚したのは1915年(大正4年)です。

 

儆三さんと離婚し、村岡花子と結婚したのは息子の嘉男が3歳くらいの頃です。
幼い嘉男は、儆三の兄である十太と養子になるわけですから、本当の父が誰なのか知らずに育った可能性もありますね。

 

その後、子供は十太の体調不良に伴い水上家に養子に行きます。
そこで、何らか自分の生まれについて知ったのではないでしょうか。

 

江川幸さんの若い頃に、息子の嘉男の一緒に写っている顔写真(画像)があまり残っていない事を考えると、あまり母親の愛情を注いでもらえなかったと思うので可哀想になりますね><

江川幸の若い頃の評判について

江川幸の若い頃の、評判についてご紹介します。

 

儆三氏と、あまりにも生い立ちが違うので育った環境が異なれば、当然、一緒に夫婦生活を営んでいると衝突する事がたくさんあったのでしょう><

 

儆三氏の行動は人道的とは言えませんが、その当時では、そんなに珍しいことでもありません。

 

江川幸さんは、結核という病気にかかった事で、我が子でさえ、この身に抱くことを許されない状態になってしまいました

 

その運命を呪っていたのか、受け入れていたのか、今となっては何も残されていません。

 

私だったらふざけるな!と運命も儆三も般若の顔で呪ってしまいそうですが(笑)

どうしてもこの江川幸という人物を思い浮かべる時、誰かを非難したり憎んだりという姿が思い浮かびません。

 

江川幸さんは、もしかしたら、一生涯、儆三を恨んでいなかったのではないかという気がしてきます。
儆三が幸に別れを告げる時、病室で幸はその悲しみを受け入れ、寂しげに笑っている姿が思い浮かびます。

 

きっと、江川幸は、儆三のことが好きだったのでしょうね^^
その人が幸せでいることが、天国に旅立つ時を目の前にした幸にとっての希望だったのかもしれませんよね。

江川幸の息子の嘉男について

江川幸さんの、息子の嘉男についてご紹介します。

 

儆三と幸の離婚が成立し、花子との結婚後、息子の嘉男は、儆三の兄である十太の養子になります。

しかし、十太の体調が悪くなると、嘉男は儆三の末妹、雪子の元に預けられるのです。

 

その当時、雪子は水上政五郎という牧師の養女に入っていました。

 

そのため、嘉男は雪子の居る水上家に行くのですが、なんだか嘉男君の状況を考えると、幼いのにとつい同情してしまいます。

 

現代を生きる私たちにとっては、養子、養女というと、少し緊張してしまいますが、この時代の小説などを読んでいると、子供が養子に行く、養子を貰うという記述が多く出てきます

 

今よりもずっと兄弟姉妹の数が多い時代でしたから、こんな風に子どもを養子に出す、という事は難しくなかったんですね。

 

もちろんその背景には、家長制度があり、家を継ぐという考え方が強かったからというのもありますが、子供を社会全体で育てていくという空気もあったように感じます。

 

だから、嘉男は、私たちが思うよりもずっと幸せだったかもしれないと、思いたくなってしまいます。

そう思いたくなるのは、嘉男の生涯があまりにも短いからです。

 

大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が起こります。
雪子と嘉男がいた水上家は壊滅状態。水上家の人々、そして雪子と嘉男もその地震の被害により、命を落とすのです。

 

儆三は、このことをとても悔やんだようですね。

 

離れ離れであったとはいえ、儆三にとっては我が子です。
自分のせいだと思ってしまう儆三を、後妻である村岡花子はどんな思いで支えたのだろうと、考えてしまいますね。

 

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江川幸の若い頃のまとめ

江川幸の若い頃の顔写真(画像)よりも、きっと実物のほうが美人だったと思います^^

周囲にいる儆三や嘉男、当時の社会状況から浮かぶ江川幸は、結婚後の闘病、幼い我が子との別れ、夫との離婚などを経験していますから、決して生い立ち~生涯は幸福だとは言えないところも多いですね。

 

彼女が感じた幸せが、あまり後世に残されてないだけであると信じたいところです。

先に生きた人たちの人生を知ることは、今の時代がどんなに貴重で得難いものかを知るきっかけにもなります。

世界は少しずつ良くなっている。

その希望を胸に、今生きる私たちは次の世代にもっといい時代を残せるように生きならない。
そんな風に感じますよ。

 

江川幸の若い頃の顔画像(写真)を調査!生い立ち~生涯について!息子の嘉男がいた!

についてまとめてみました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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