藤山寛美の若い頃の顔画像(写真)!死因が凄い?家系図が気になる!【おちょやん】

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NHKの連続テレビ小説「おちょやん」の朝ドラで、藤山寛美さんがモデルになっている松島寛治役を「前田旺志郎」が演じられていて注目を集めていますね(*^^*)

 

若い頃の顔画像(写真)や死因などが、気になる方は多いのではないでしょうか。

 

「おちょやん」とは、料亭などで働く女中さんを差したおちょぼさんがなまった大阪ことばで、芝居茶屋に奉公に出されたヒロインである千代のことです。

 

このヒロインの千代は女優を目指して芝居茶屋から劇団へと移る中で、「鶴亀新喜劇」という喜劇団に所属することになります。

 

そして、劇団に所属する中で千代が面倒を見る「松島寛治」という青年モデルとなっているのが藤山寛美さんです^^

 

パッと見は女性の名前かと思いますが、藤山寛美は男性です。

 

長年にわたり松竹新喜劇のスターと言われ、阿呆の役が特に評判で「あほの寛ちゃん」と親しまれていました。

 

今回は、藤山寛美さんの若い頃の顔画像(写真)や、死因が凄いのかと家系図などについてご紹介していきます。

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藤山寛美の若い頃の顔画像(写真)!

藤山寛美さんの、若い頃の顔画像(写真)をご紹介します。

 

昔からイケメンというわけではなかったですが、別にブサイクなわけでもなく普通の顔と言えます^

 

眉は太くなく、くっきりしていて、でもちょっと下がり眉なので剽軽な役など困り顔っぽい表情の役が似合うのが分かります。

 

面長であまり凹凸のない顔が普段の顔ですが、役を演じている時の藤山寛美さんは表情がはっきりと出ていて素顔とは別の顔を見せており、役者だなぁと感じさせます(*^^*)

 

若い頃の、顔画像(写真)を見ると髪の毛が短いのは戦中戦後の時代柄なのか、役を演じるうえで被り物をすることを考えてなのでしょう。

 

いつもさっぱりとした髪型で、髭も濃くなくすっきりとした顔をしていますね(*^^*)

 

藤山寛美さんの顔画像(写真)は「あまり特徴的な顔ではないように思います」なんて言ったらツッコミ入れられてしまいそうですが、素顔が特徴的ではない分、演技次第でどんな役にもなれる顔でしょう。

 

そのほうが「役者冥利に尽きる」と舞台役者としては嬉しいのではないでしょうか^^

藤山寛美の若い頃と現在の顔画像(写真)を比較!

藤山寛美さんの、若い頃と現在の顔画像(写真)を比較しました。

 

さすがは役者というべきなのか、晩年もあまり顔立ちは変わりません。

「笑顔が優しくなったなぁ」とか、「眉毛も柔らかい印象になったなぁ」とか、全体的に雰囲気が優しいです

 

藤山寛美さんは、若い頃から体型もさほど変わらないようですし髪も真っ黒にしているのであまり年を取った感じがしない顔写真(画像)が多いです。

 

しいていうなれば、若い頃のような強い眼光がない分、もともと優しい垂れ目だった顔の印象が強くなったという感じでしょう(#^.^#)

 

藤山寛美さんの死因は、病気でこの世を去っていますが、昔からある程度健康に気をつけたり老けないように心掛けていたと言われています。

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藤山寛美の若い頃は異性にモテモテだった?

藤山寛美さんの、若い頃は異性にモテモテだったのか調査しました。

1929年生まれですので、終戦時で16歳です。

 

大阪大空襲で道頓堀が被害を受け、芝居小屋が焼け落ちたこともあり徴兵された経験があります。

 

そして、1945年に皇軍慰問隊として旧満州にわたって終戦を迎えた後はソ連軍に一時拘留され、解放後は「キャバレーのボーイ・靴磨き・芝居・ブローカー」などで生き延びたと言われています

 

藤山寛美さんが、無事に日本に帰国できたのは終戦から2年後の1947年秋だったとか。

 

ずっと敵地に戦争に行ったまま帰れなかったら結婚した嫁(妻)の、「高橋峰子」さんとは出会っていなかったでしょうね><

 

旧満州時代の話はほとんど残っていませんが、敗残兵として多感な十代を過ごしていと言われています。
さすがにこの時代は、異性にモテモテというわけにはいきませんね。

 

そして、藤山寛美さんがは日本に帰国後に浪花千栄子らの松竹新喜劇結成に参加し、役者として再度歩み始めます。

 

若い頃に渋谷天外作の「桂春團治」の丁稚役で評価されて人気が出た後は、座長としても仕事をしていたと言われています。

 

役者としての人気が出ると、ついて回るのが接待を伴う夜遊びですね><

私生活では金遣いの荒さ、夜遊びでも名を馳せたと言われています。

 

この頃の、藤山寛美さんの遊び癖や酒を飲みまくっていた行動が、後の死因に繋がったのではないでしょうか><

 

もともとが俳優の息子で、「遊ばん芸人は華が無うなる」という母の教えに従い夜の街で豪遊を繰り返していたとか。

 

モテモテとはちょっと違いますが、この豪遊はいわゆる宣伝としての豪遊だったようで、バーのボーイにチップとして車のキーをプレゼントしたことも「宣伝料だと思えば安いものだ」と話していたそうです。

 

藤山寛美さんは、やはり考え方が芸人なんですね^^

 

若い頃は、連日芸者遊びを繰り返していますが、顔画像(写真)からはイケメンというほどはっきりとした顔立ちには思えませんでした。

 

ですが、人気者でお金持ちで立派な家系の人ですから、女性には人気だったことでしょう(*^^*)

結婚相手は芸者さんというところも、遊び人らしいと言えばらしいような気もします。

 

相次ぐ豪遊と友人に騙されて借金を背負い、約1億8000万円の負債を抱えて自己破産し、松竹からもマネジメント契約を解約されるという結果になったと言われています><

 

この頃には、客席やロビーに借金取りのやくざがたむろしていたそうですから、藤山寛美さんはお客さんからの人気もなくなってしまいます><

 

その後は舞台ではなく映画に出演するなどしていたと言われています。

 

一時は解雇された松竹に、寛美は復帰することになります。

 

というのも、藤山寛美さんの解雇後に新しく始まった松竹新喜劇は思ったほど客足が伸びず、結局寛美の力が必要になりました^^

 

新喜劇は寛美の負債を立て替えることで再び松竹に呼び戻しています。

 

その後は、松竹新喜劇のために若い頃から20年間の1日も休まず舞台に立ち続けたという偉業を達成しました。

 

実際は244ヶ月連続無休公演と言い、巡業を含め公演を月25日で昼夜3本ずつという超ハードなものでした(T_T)

 

藤山寛美さんを、贔屓(ひいき)にしてくれる客を大切にする大阪の芸人の考えが、自分を役者に戻してくれた松竹への感謝の形として現れた結果なのでしょう。

 

寛美が戻った新喜劇は再びの大盛況で、寛美は芝居に打ち込み1989年には紫綬褒章も授与されています(*^^*)

藤山寛美の死因が凄い?

藤山寛美さんの、死因が凄いと囁かれているのでご紹介します。

 

病気が原因で病名は「肝硬変」でこの世を去りました><

 

具体的には、松竹新喜劇がマンネリで苦しむ中、1990年3月に体調不良を検査したところそのまま入院し、5月21日に60歳で天国に旅立たれています。

 

病床では7月の東京公演に向けた練習や演出を手掛ける舞台についてなど心残りがあったようで、舞台への復帰を望んでいたと言われています。

 

しかし、その希望はかなわず、演出予定だった舞台も寛美が天国に行ってから追悼公演という形で上演されています。

 

藤山寛美さんは、病院でも舞台の衣装で使う道具を持ってこさせようとしたり、「本が欲しい、芝居がしたい」などと言っていたとか。

 

ずっと芝居とともに生きてきた寛美にとっては、芝居のない生活はきっと退屈で苦痛だったんだろうと思います><

 

初舞台が4歳ですから、56年ずっと演劇に携わっていたのが急に緊張の糸がぷっつり途切れてしまったことが入院から3カ月経たずに天国に旅立たれたことと関係あるのではないでしょうか。

 

藤山寛美さんの、死因は体は若い頃の豪遊とその後のハードな稽古と公演で身体を酷使し続けいたことが深く関わっているのでしょう><

 

また、入院したことによって一気に精神バランスが崩れてしまったのかなぁと考えてしまいます。

 

ずっと舞台に立ち、第一線で活躍していた一方で後継者の育成をしていなかったことなどが死去の際に報じられ、悔やまれていました。

 

立川談志さんは藤山寛美さんに対して「通天閣が無くなったようだ」と言ったとか><

 

大阪の、新喜劇のシンボルとして輝いていたわけですから、大阪の人にとっては居て当たり前で生活の一部として寛美の喜劇があったんだということがよくわかる言葉ですよね^^

藤山寛美の家系図について

藤山寛美さんの、家系図についてご紹介します。

本名は「稲垣寛治(いながき かんじ)」と芸名の「藤山寛美(ふじやま かんび)」と違って男らしい氏名ですよね。

 

当時関西にあった成美団という劇団で俳優をしていた藤山秋美(本名:久保田諒治)を父親に持ち、母親はお茶屋の女将だった稲垣キミです

 

お父さんの秋美が、巡業先で倒れていて死因は結核だったと言われています><

 

病没した際に同じ派閥に所属していた、女形役者の花柳章太郎に言われて藤山を継承したんだとか。

歌舞伎などの伝統芸能が代々名前を受け継ぐように、父親の名を継いだんですね。

 

藤山寛美さんの家系図では、娘や孫など身内家族に女性が多い家系となっています。

 

父親の初舞台は4歳だったと言われていて、母親は秋美と結婚してはいたものの正式に籍は入れておらず、寛美を含め5人の子がいるものの正式な父親ではないのだとか( ゚д゚)ハッ!

 

天国に行く直前に籍を入れようとしたけど間に合わなかったそうです><

 

藤山寛美の本名が稲垣なのは、両親が籍を入れていないので父親の久保田姓を名乗れなかったからと言われています。

 

当時は籍を入れていない関係(今でいる内縁関係)は珍しかったのではないでしょうか。

 

藤山寛美さんは5人兄弟の5番目で、2人の姉と2人の兄がいます(*^^*)
兄弟に有名なエピソードはなく、父の跡を継いで役者の道を選んだのも寛美のみ。

 

豪遊していた時に知り合った京都の芸妓、「高橋峰子」さんと結婚し、娘が5人います。
長女と次女は高橋峰子さんの連れ子だったそうです。

 

 

3女の稲垣直子は藤山直美と名乗り、役者の道を進みました。
5女の美千留は小唄の家元と結婚し、美千留の子供で寛美の孫にあたる藤山扇治郎は現在も役者として活躍しています。

藤山寛美の若い頃の評判について

藤山寛美さんの、若い頃の評判をご紹介します。

 

人気のきっかけとなった「桂春團治」ですが、本来は丁稚という超端役の寛美に与えられたセリフは「ツケをはろうとくなはれ!」という言葉だけだったと言われています

 

ですが本番では渋谷天外相手に長々とアドリブを続け、そのとぼけた会話がフジヤマ旋風と呼ばれるほどのブームを起こしたんだとか^^

 

いやはや、なにがウケるか分かりませんねぇ(#^.^#)

 

この若い頃のブームがきっかけで出演していた「天外の親バカ子バカ」というテレビ番組も視聴率58%を記録したというんだから大人気だったんですね。

 

道頓堀は連日満員だったそうで、当時は大卒の初任給が2万円という時代でしたが、スター藤山寛美は月給80万円(現在の貨幣価値で1000万円)だったと言われています。

 

そんなに払えるだけの売り上げがあったとは、新喜劇の人気ぶりがうかがえますね(*^^)v

寛美の演技で評価されたのは「絶妙な間」だったとか。

 

セリフと表情で見せる「間」の演技が、フジヤマ旋風も巻き起こした藤山寛美の芸風だったと言われています。

 

若い頃に渋谷天外さんと共演した「親バカ子バカ」の番組でも阿呆の役を演じ、阿呆の役と言えば藤山寛美という評判を獲得しています。

 

公演のない日は稽古に打ち込み、稽古場では忙しすぎてストレスを抱えていたともいわれる藤山寛美さんのやり方は体力的にもかなりつらいものでした。

 

それでも、お客さんに喜んでもらいことをモットーとする寛美は自分のやり方を貫き通したと言われています(*^^*)

 

ですが、そのワンマンなやり方に反発して松竹を辞めた者もいたそうですし、ハードな稽古は藤山寛美だからこそできたことなんでしょうね。

 

頑張り続けた結果、新喜劇復帰19年で負債を完済しています。

 

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藤山寛美のまとめ

藤山寛美さんの若い頃の顔写真(画像)を見ると、眉毛は太い方ではなく、くっきりしながら下がり眉なので困り顔っぽい表情をしていました。

 

死因は、「肝硬変」で1990年3月に体調不良を理由に「大阪市立大学医学部附属病院」で検査後に入院し、5月21日に60歳で天国に旅立たれています。

 

戦後のつらく厳しい時期からずっと、笑いで日本に元気を届けた喜劇のプリンスの人生は、寝るとき以外ずっと役者として生き抜いた人生だったのでしょう。

 

波乱万丈の人生の中でも変わらずに、ただあるのはお客を一番に考える姿勢でした。
それこそ役者として大切な心構えだと思いますが、寛美は幼くしてデビューしてからずっとその姿勢を崩さずに生きたんだなぁということが今回改めて分かりました。

 

今の芸人、役者に大きな影響を与えた人物でもあったんですね。

色々な役をこなした寛美ですが、どの役にも共通するのは人を喜ばせることです。
喜劇専門の俳優だった寛美の仕事はまさに客を喜ばせること。

 

厳しい稽古の上に成り立つ仕事を50年以上続けていられたのは、お客さんの笑顔が見たいという純粋な思いがずっとあったからだと思います。

 

藤山寛美の若い頃の顔画像(写真)!死因が凄い?家系図が気になる!【おちょやん】

についてまとめてみました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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