小篠綾子さんは、2011年秋のNHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」のモデル女性です。
若い頃の顔画像(写真)や、死因などが気になる人は多いのではないでしょうか。
連ドラ最高傑作との呼び声も高いカーネーションは、小篠綾子という女性の生い立ちから生涯を描いている作品です。
「家族と地域と自分自身としっかり向き合うヒロイン」としてドラマのモデルに選ばれた彼女は、世界的ファッションデザイナーであるコシノ3姉妹の母親です。
ミシンひとつで店を始め、女手一つでヒロコ、ジュンコ、ミチコの三姉妹をファッションデザイナーに育て上げ、自身も生涯デザイナーとして活躍した、パワフルな女性ですね^^
92年の人生を波乱万丈に生きた姿が人気を呼んでいました。
今回は、小篠綾子さんの若い頃の顔画像(写真)や、死因が凄いのかと生い立ちから生涯などについて紹介していきます。
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目次
小篠綾子の若い頃の顔画像(写真)!
6月15日はNHK #朝ドラ【#カーネーション】の主人公、糸子ちゃんのモデルとなったコシノ三姉妹の“おかあちゃん”こと小篠綾子さんの誕生日だそうです♪
てことで3月4日の #ミシンの日 に描いた糸子ちゃんを再掲。ちなみに今日の誕生花もカーネーションですって。#1日一点とにかく描く #今日は何の日 pic.twitter.com/VftfWKdu81— よろづ屋TOM ☆絵ネタはRTが何よりのご褒美♪ (@yolozyaTOM) June 14, 2019
小篠綾子さんの、若い頃の顔画像(写真)を紹介します。
娘の3姉妹の姿は多くありますが、子供たちが成長してからのものがほとんどです。
どの写真もショートカットのさっぱりしたいでたちの小篠綾子がいます。
仕事一筋だったと言われているので、きっとビジネスしやすいように髪も短くし、ミシンを踏みやすいようにしていたのでしょう。
小篠綾子さんの若い頃の顔画像(写真)は、実家のコシノ洋装店がドラマをきっかけに記念館になった際に展示された写真の中にわずかにある程度でした。
昔は細身の女の子で、可愛い中にもちょっと吊り目がちな力強い目が特徴的でした。
結婚したころに旦那(夫)と一緒に撮った顔画像(写真)では、意外にも小篠綾子さんは和服でテーラーをしていた亭主が洋装というツーショットです。
この頃の写真では気の強そうな感じは変わらずありますが、3姉妹との写真などでは優しい笑顔が見られるものもあります。
小篠綾子の若い頃の顔画像(写真)は可愛いと美人どっち?
小篠綾子さんの、若い頃の顔画像(写真)は可愛いと美人どっちなのか紹介します。
とびぬけて美人ではないですがしっかりしていることはよくわかる、ぱっちりした目元が可愛いですね(*^^*)
スタイルもすらりとしていますし、母親になっても写真に写る小篠綾子さんはオシャレです。
女の子にとって綺麗なお母さんは自慢できるでしょうね^^
旦那(夫)さんとの結婚は、相手が綾子さんに惚れたからという理由だったんだとか。
小篠綾子さんの、若い頃の生い立ち~生涯にかけてとっても働き者だったと言われています。
ただ、死因が病気ですから仕事を一生懸命に頑張りすぎたことが、影響している思うので働きすぎて身体を壊しやすかったのではないでしょうか><
彼女の苦労を思うと、可哀想になってきます。
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小篠綾子の若い頃の評判について
小篠綾子さんの、若い頃の評判を紹介します。
子供の頃は、周囲から気が強い性格だと噂されていたと言われています。
特に小篠綾子さんは自分以外の兄弟をすべて幼いうちに失くしているので、きっとその兄弟の分も元気があったのでしょう><
始めはだんじり祭りに夢中になり、やがてミシンに夢中になります。
若い頃は好きなもの一点集中型で自分が熱中できることには、何時間でもできるような集中力のある子だったのでしょうね。
今でもよく言われますが、服飾関係の仕事は集中して真面目に根気強く取り組める人でないと仕事になりません。
小篠綾子さんは、お子様が出来てからも、構ってほしい子供の前でこれ見よがしに布を裁断して見せたり、家にいさせないために習いごとをさせたりとどこまでも仕事優先だったと言われています。
ですので、あまり一家団欒の時の顔画像(写真)はないのだとか><
戦時中も禁止令をかいくぐる工夫で店は繁盛し、食糧難にもならずに済んだというコシノ洋装店。
「ヤミ営業している」と心無い噂も立ったようですが、「闇ではなく工夫なだけ」取り合わなかったと言われています。
子ども達はそんなブレない母親の背中を見て育ったからこそ、母同じ生い立ちから生涯にはならないと言いながらも3姉妹とも同じ道に進んだのでしょうね。
小篠綾子の死因が凄い?
小篠綾子さんの、死因を紹介します。
「脳梗塞」の病気を患っていて、92歳で天国に旅立たれています><
ただ、若い頃から子育てと仕事を両立しながら濃ゆい人生を歩んでこられているので、あまり後悔はないでしょうし大往生と言える年齢でしょう。
小篠綾子さんの訃報は、全国的に報じられており、家族での葬儀の後にお別れの会が行われていますね。
死因の脳梗塞は、脳の血管が詰まることで脳に酸素と栄養がいかなくなりこの世を去ってしまう病です。
原因は様々なので特定できませんが、年齢的に心肺機能の衰えはあるでしょうから、心臓が弱くなってくることで血流が滞りがちになり、血栓ができやすくなることも考えられます。
時代的には食生活の欧米化と共に生きてきた方なので、食事が要因となりやすい高血圧や高脂血症などの「持病があったことも考えられるでしょう。
また、小篠綾子さんのは若い頃から働きづめで忙しかったことで年を経て身体にガタが来たことも大いに考えられます。
天国に旅立つ直前までビジネスをしていたと言われていますから、本当に仕事人間だったのですね。
内縁の夫よりも、先に天国に逝ってしまったことは少し心残りがあったのかもしれませんね。
小篠綾子の生い立ちについて!
小篠綾子さんの、生い立ちを紹介します。
1913年に兵庫県で生まれていて、実家は呉服屋でした。
父親は呉服屋の番頭で、母親はそんな父に惚れて家を出た資産家の娘という両親。
小篠綾子さんを生む前に、1人と後に3人の兄弟がいましたが、全員幼くして天国に逝ってしまったのだとか><
そんな中で一生糸に関わる仕事につけるようにと、食べ物に不自由しないようにとの思いでつけられたのが「綾子」という名前だったと言われています。
小篠綾子さんの生い立ちは、3歳で大阪府岸和田市に移り、だんじり祭りが大好きな女の子だったのだとか(*^^*)
元気いっぱいで気が強く、お転婆だった幼少期を過ごしたのですね^^
いつか自分もだんじりの大工方として、屋根の登って祭りに参加すると意気込んでいたと言われています。
そんな小篠綾子さんの様子が変わったのは、お母さんの実家がある神戸の祖父母邸で洋服を目にした時でした。
当時は洋装はまだ珍しく、始めてみた衣類に惹かれていったのだとか。
そこからは洋服づくりのためのミシンに夢中になっていきました(*^^*)
その後の生い立ちは、大阪府立和泉高校を中退し、周囲の反対を押し切り15歳でミシン踏みの修行へ行きます。
パッチ店や紳士服店、生地屋で修業し基礎を学んだんだのだとか。
今でこそ洋装関係の仕事に就こうと思ったら服飾の専門学校に通うのが一般的だと思いますが、今も昔も服飾関係は免許がいらないので実務経験や技術力がモノを言う世界です。
専門学校には行かずに直接店に出向いて修行をするという働き方は、大変ではありますが一番技術力が上がる道だったんでしょうね。
紳士服店での修行の際には女性ダンサーのドレス製作を手掛け、その際に編み出したのが立体裁断です。
これは当時修行していた紳士服の店に女性ものの服を作れる人がおらず、小篠綾子さんが布地を見繕い型紙を作るなど準備をしたものだったと言われています。
型紙は作れても、裁断をしたことのない綾子は裁断方法が分からず、苦肉の策として客の体に布を巻きつけて行ったと言われています。
小篠綾子さん制作したドレスが好評となり、ダンスホールのダンサー全員が彼女のドレスを着ていたほどなんだとか^^
その後裁断や縫製の基礎を学び、成長していったと言われています。
呉服屋生まれですが、洋裁の道を選んだ小篠綾子さんは21歳でコシノ洋装店を開業します。
開業当時はミシン1台しかないような小さな店でした。
若くして、自営業を始めているのでプライベートな時間はほとんどなかったでしょう。
こんなに忙しい毎日を送っていたら、家族とゆっくり過ごしたり子供や夫と顔画像(写真)を撮っている暇はないですよね。
小篠綾子の生涯について!
小篠綾子さんの、生涯を紹介します。
店舗経営を始めた年に紳士服テーラーだった川崎武一さんと結婚しています。
3年間の夫婦生活を営む中で長女ヒロコ、その2年後に次女のジュンコを出産します。
当時は店を経営しながらの妊娠で出産当日まで仕事を続け、ミシンを止めることだけはしなかったのだとか。
この頃には洋装店は軌道に乗っていたのでしょうね。
「町中の服を全部うちの服にしちゃる!」と意気込んでいたそうで、営業の才能もあったのだとか。
子供が泣いても、小篠綾子さんのミシンを動かす手は止まらず、我が子をあやすのはもっぱら夫の役割だったそうです。
更にその後3女のミチコを妊娠しますが、旦那は太平洋戦争に召集されてしまいます><
ミチコ出産後に戦争は佳境に入り、夫は1945年に帰らぬ人になってしまったのだとか。
戦争の中、若い頃の小篠綾子さんは女手一つで3姉妹を育てる日々が始まります。
夫を失った後に内縁の夫で芸者との浮気が発覚したり、ミチコ出産後に父親が天国に旅立つなど悲しいことも多かったのだとか><
そういった事もあり、ジュンコと海に行き一緒に心中しようかと悩んだこともあったと言われています。
それでも、なんとか思いとどまり海に向かって叫び、家に帰ったんだとか。
オシャレが禁止されている時代も工夫で乗り切り、小篠家のミシンの音は止まなかったんだとか。
小篠綾子さんは、娘たちが大きくなる頃、趣味の社交ダンスに目覚め恋愛もしたくなっていました。
相手は妻子ある身ながらも、子供達も納得していた関係だったと言われているので複雑ですよね><
厳しい時代を生き抜き、3人の娘はそれぞれに世界的なファッションデザイナーに成長します。
ヒロコとジュンコは幼いころから何事に関してもライバルでした。
服飾学院でデザイナーとしての才能を見出した姉を見た妹も、対抗心を燃やして同じ道へ進みます。
末っ子のミチコも、マイペースにロンドンで修業しデザイナーになったと言われています。
小篠綾子さん洋装店を続ける傍らテレビに出演したり、娘たちのショーを見にいったり講演会をしたりと生涯をかけて世界中を飛び回っています。
1988年には74歳で「アヤコ・コシノ」ブランドを創設しました。
2006年に、死因の脳梗塞で逝去するまで現役デザイナーとして仕事を続けていました。
小篠綾子のまとめ
小篠綾子さんの、若い頃の顔写真(画像)は美人ではないですが目が大きく眼力が強くて可愛らしい印象があります(*^^*)
生い立ちから生涯は、洋服に魅了されてミシンのとりこになってデザイナーの仕事に没頭します。
反対していた父親も、娘のミシンへの執着と洋服づくりへの情熱には折れたのだとか。
当時は高価な物でしたが、お父さんは小篠綾子さんのためにローンを組んで買ってくれたと言われています。
始めは父の呉服屋の隅でオーダーメイドの注文を受け付けていたところから、大きく成長していった女性はやがて世界を魅了するまでになっていくんですね。
死因は、「脳梗塞」でした。
娘のコシノヒロコさんは2012年のロンドンオリンピック体操日本代表のユニフォームのデザインを手がけたことで話題になりました。
小篠綾子も、出身地の大阪にある大阪府立和泉高校の制服デザインを手がけるなど、若者にも名前が知られていますね。
子供に構わず仕事三昧になってしまうと、虐待が疑われそうな気もしますが、そんなことはなく我が子の為に一生懸命に働く母の背中を見せ、仕事の大切さや大変さを教えていたのでしょう。
晩年は朝ドラ視聴にハマり、いつか自分の人生を描いた作品も作りたいと話していたと言われています。
小篠綾子の若い頃の顔画像(写真)!死因が凄い?生い立ちから生涯について!
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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