俳優の小栗旬さんが北条義時役で2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出演されていますね(*^^*)
子孫や家系図などが、気になる人は多いのではないでしょうか。
もう歴史を習ったのなんて大昔なので、北条と名の付く人物は何人かしか覚えていませんが、北条義時と言えば承久の乱が有名でしょう。
後鳥羽上皇を負かした人物として記憶していました。
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と2代目の源頼家とも、深い関わりがあります。
将軍を影で支えながらも色々と、活躍しますが62歳という年齢でこの世を去りました><
鎌倉時代の平均寿命はまさかの24歳となっていますが、これは乳児がすぐに天国に旅立つ率が圧倒的に高かったことが一つです。
平均寿命が短い理由として、二つ目は飢饉や凶作で食事もまともに出来ないような日常の農家で、生まれたばかりの子供を川に流して捨ててしまうことも珍しくなかったのだとか。
一方で、鎌倉時代に長生きする人は70歳とか80歳まで生きていたと言われています。
貴族は50歳くらいで、亡くなる人が多い中、武士は70歳を超えても元気な人がいたのですね(*^^*)
義時は武士の出身で、豪華な食事より質素でも栄養のある食事をとり、体を動かすことで長生きできたのでしょう。
今回は、北条義時の子孫や家系図を調査や子供・評判などについて紹介していきます。
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目次
北条義時の子孫を調査!
ちなみに来週のジャンプには北条氏の家系図がついてくるぞ!!!!
なにこれ???ほんとなにこの現象???なんでジャンプに北条家の家系図がつくんだよ!!!!わけわかんねえよ!!!どういう時代だよ令和ってやつはよお!!! pic.twitter.com/xLFWqIAGmF— 猫怖大夫牧野さん (@mknhrk) January 25, 2021
北条義時の、子孫を調査しました。
一夫一妻制ではない鎌倉時代、正室や側室、愛妾などの平安文化が残る時代でしたので多くの妻(嫁)と子供がいます。
阿波局という女性と21歳の時に、長男・泰時を授かりますが正室の子ではない庶子でした。
この泰時が3代目執権として父親の、北条義時の後を継ぐことになる人物です。
正室は頼朝の仲介で迎えた姫の前という女性で、結婚した翌年に嫡男・朝時が産まれます。
姫の前が比企一族の親戚だったこともあり、比企能員の乱前に姫の前とは離別、伊賀の方を継室として迎えています。
伊賀の方との子供が五男ですので、その間にも子供を授かっている北条義時。
子供は13人分かっていますから、子孫の数もたくさんいるのですね^^
以下で、北条家の子ども達を分かる範囲で紹介します(*^^*)
- 母親:阿波局→子供:北条泰時
- 母親:姫の前→子供:北条朝時、重時、竹殿
- 母親:伊佐朝政の娘→子供:北条有時
- 母親:伊賀の方→子供:北条政村、実泰、時尚、女子(名前不明)
北条義時の家系図には、全ての子供情報は記載されていませんが判明しているだけでも、その他に生母不明で女子が4人います。
いずれも武将などに嫁いだことで、北条義時のお子様と記録されているのだとか。
当時は戸籍もないですし、残された書物に記録のある人物として分かっている人数が13人なので、実際はもっといるのかもしれませんね。
また、常に命を狙われる戦がある時代ですので、成人できずにこの世を去る子供も多かったと言われています。
夭折した人物も含めるともっといるでしょう。
そして、泰時の前にさらに兄がいたという伝説がありました。
名前は安千代丸です。
泰時の幼少期の名は金剛なので、別人と分かります。
なんでも安千代丸は、義時の住む村の大池の大蛇に吞まれてしまったのだとか。
怒った北条義時は、どうにもできずにいる時に遭遇した大蛇の左目を矢で射ると大蛇は去っていき池は浅くなったという伝説があるのだとか。
そして、安千代丸の菩提を弔うために北條寺と建立したという経緯があります。
北条義時の家系図を調査!
北条家の家系図作ってみました。
(だいぶ、いない方がおるが…) pic.twitter.com/4K08sVbmm6— 北条左京大夫氏直 (@Kuniomaru_H) March 31, 2020
北条義時の、家系図を調査しました。
父親は、北条時政と言い伊豆の豪族出身で、北条家の一員ではありますが当主などの権力はない地方豪族と言われています。
源頼朝の伊豆配流に伴い監視役として頼朝について鎌倉幕府の初代執権になった人物ですが、源氏と接点を持つまでの生涯は不明です。
北条義時の母親は、伊東入道の娘とだけ知られており、時政の地元である伊豆の豪族の娘と言われています。
ですが、このお母さんは正室ではなかったようで、北条義時の兄がこの世を去った後も義時は北条家の嫡男としての扱われ方ではなく、分家の初代という扱いをされています。
北条家は時政が後妻として娶(めと)った、牧の方との間の子である政範が嫡子として扱われています。
直径の子孫なのに嫡子として扱われないのは当時としては普通なんでしょうが、今となっては謎の制度ですよね。
その後、北条義時は同時進行ではありませんが4人の奥さんと夫婦生活を営みお子様もたくさんいます。
北条家の家系図には、子孫情報が載っていますが実は雑誌の週刊少年ジャンプにも載っています(*^^*)
長男泰時が庶子だったので、嫡男は次男の朝時がなっていますが、執権を継いだのは泰時でした。
母親の地位は子供の将来とは関係しないことが分かりますね。
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北条義時の子供について!
北条義時の、子供について紹介します。
長男泰時は、父親の後を継いで鎌倉幕府3代目執権を務めた人物です。
武家からも公家からも信頼される温厚な人物で、質実剛健と称されています。
御成敗式目を定めた人物としても教科書で出てきますね。
その他のお子様たちは歴史上に名前が挙がることはほとんどないですが、いずれも武将として活躍しており、各地に散っています。
北条朝時は名越流北条氏、重時は極楽寺流北条氏といったように、各地の北条氏の祖となっているのが北条義時の子供達です。
北条義時の子供時代について!
北条義時の、子供時代を紹介します。
幼少期に、父親の時政と挙兵した1180年が最初の戦です。
この時北条義時は17歳ですから、それより以前の記録は分かっていません。
兄と共に挙兵していることを考えると、同じ家で過ごしていたのでしょうね^^
子供時代の勇ましい姿を見た父親は、子どもの武力を認めていたから一緒に合戦に連れて行ったりしたのでしょうね。
出身は伊豆半島で、海も山もあって自然が豊かな土地です。
当然栄えていたでしょうし、武士や農民、漁師など様々な人との交流があったのでしょう。
北条義時が最も活躍した時代には、いつも状況を冷静に見て勝つ方に味方していたくらい周りを見る目が養われていたようですが、そのルーツは知られざる幼少期にあるのですね。
北条義時の評判について!
北条義時の、評判を紹介します。
鎌倉幕府の基礎を作った人物として知られています(*^^*)
そのために多くの武将や人物達の命を奪ったことや、承久の乱で天皇家を配流するような措置を取ったことから、極悪人という評価が一般的なイメージでしょう。
権力をすべて一人で握っていたことも、悪い評判につながっているのかもしれませんね。
また、仇なす人物は一族滅亡は配流、幽閉など処罰が徹底していることもやりすぎに思われがちです><
北条義時が行きていた時代は、弱肉強食でしたから分からなくはない対処ですが、かなり厳しいですね。
一方恋愛においては「吾妻鏡」の中で、正室に迎える姫の前との馴れ初めを「一目ぼれした女に恋文を送るも無視され続け、最終的に上司である頼朝の仲介で結婚した」と書かれています。
しかも結婚したら、絶対に離婚しないという起請文まで書いていたのだとか。
奥さんと簡単に別れないと誓ったことも、子供や子孫がたくさんいることに繋がっているのでしょう。
ただ、実際には離別していますから、この時の契約を誓った神に天罰が下されたかもしれません。
北条義時と源頼朝や源氏との関係性について
北条義時と源頼朝や源氏との関係性について紹介します。
父親の北条時政が伊豆に配流され、源頼朝の監視役となったことが仲を深めたきっかけだと言われています。
北条時政は伊豆の国の豪族でしたので、自分の領地にやってきた頼朝の監視や世話を任されたのでしょう。
頼朝の父・源義頼が平治の乱で破れ、その子供の頼朝は捕らえられて伊豆に流され北条氏と出会うのです。
そんな頼朝の監視を行った北条時政は娘・政子と頼朝の結婚もあり、源氏についていきます。
時政と同じく北条義時も頼朝に仕え、源氏と北条氏は繋がりを濃くしていったのです。
【北条義時の関連記事】
北条義時の死因が凄い?お墓の場所はどこ?生い立ち~最後の生涯について
北条義時のまとめ
源頼朝の家臣として信頼されていた北条義時。
頼朝亡き後も、主君の意志を全うすることを第一に行動していたと言われています。
ですが、人の命を奪ったり陰謀につながったことで、暴君と言われてしまった悲しい過去があります。
自分の意志を通すためには権力も武力も必要だった時代なのでしょう。
子孫情報が描かれた家系図があり、週刊少年ジャンプでも記載されています。
最近では北条義時の功績や行動が見直されているという事ですし、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場していますから、少は世間の目が優しくなるんじゃないかなと思います。
北条義時の子孫や家系図を調査!子供や評判について!
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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