北条義時の死因が凄い?お墓の場所はどこ?生い立ち~最後の生涯について

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北条義時は、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中の一人の武将です。

 

死因やお墓の場所はどこなのかなどが、気になる人は多いのではないでしょうか^^

 

新選組と真田丸に続き、三谷幸喜監督がメガホンをとっています。

鎌倉殿とは、鎌倉幕府の2代目将軍・源頼家を指します。

 

そして、頼家を支える13人の家臣が権力争いなどを経て幕府を導いていくという経緯をドラマにした物語なんですね(*^^*)

中でも主演を務める小栗旬さんが演じるのが、北条義時という家臣です。

 

 

この北条義時は13人の中では、一番出世していく人物です。

今回は、北条義時の死因が凄いのかやお墓の場所はどこなのかと、生い立ち~最後の生涯などについて紹介していきます。

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北条義時の死因が凄い?

北条義時の死因が凄いのか紹介します。

 

北条家と言えば、私は戦国時代に豊臣秀吉、徳川家康の連合軍が北条氏直と北条氏政を打ち破った小田原城の戦いを思い出します。

 

その時に、城に籠もっている人達や子孫を根絶やしにしてお墓に入れるような勢いだったので、それからというもの徐々に北条家は衰退の一途を辿ってしまうのですね><

 

 

北条義時は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将なので「鎌倉殿の13人」は戦国時代よりもずっと前のストーリなんです

 

そして、北条義時の死因は、「心不全」だと言われています><

 

書物によって異なるのですが、「吾妻鏡」では衝心脚気としている一方で「明月記」では後妻に毒殺されたとか近習の侍に刺されたとか色々な憶測があると言われています。

 

 

幕府要人の急死となれば、噂が立つのは必然でしょう。

 

当時は心不全などの病気についても解明されていないですし、解剖することもありませんから正確な死因はお墓の中の北条義時氏しかわからないと思います。

 

もしかしたら、幼少期の生い立ちから虚弱体質であまり身体が丈夫じゃなかった可能性もありますね。

 

前日まで精力的に活動していた人が急に天国に逝ったと言われても信じられないですから、幕府内の動揺は相当だったのでしょう。

北条義時のお墓の場所はどこ?

北条義時の、お墓の場所はどこなのか調査しました。

墓所は全国に2つあり、一つは静岡県伊豆の国市にある北條寺です。

もう一つは、神奈川県鎌倉市にある頼朝法華堂の東の山です。

 

北條寺には夫婦の墓があると言われています。

法華堂は現在はお堂自体はなく、遺跡調査で遺構が発見され、頼朝と北条義時のお堂だったことが解明されています。

 

天国に旅立ってもなお頼朝の側近として、生涯に渡り最も信頼のあった家臣での義時を隣にしたのか否か、真相は不明です。

そんな、想像があってもいいのかなーとは思ってしまいますね。

 

戦国時代は、自分の生い立ちから最後の人生まで50年生きれれば御の字だと、織田信長公が言っていましたが、鎌倉時代はもっと人々の平均寿命が短かったのではないでしょうか。

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北条義時の生い立ちについて

北条義時の、生い立ちを紹介します。

静岡県の伊豆半島を収める豪族・北条時政の次男です。

兄が北条宗時、姉が北条政子です。

 

父親の北条時政は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に仕えた執権(将軍の補佐)だったのだとか

北条義時も、最終的には源氏が滅んで以降の鎌倉幕府を支える得宗になるので、親子で同じような仕事をすることになります。

 

そして、15歳の頃に姉・政子が源頼朝と結婚し、兄も居ましたが1180年の石橋山の戦いで失っていています><

 

その後、北条義時はお父さんと共に甲斐の源氏を助けて静岡での戦いに勝利します。

父親とはその後喧嘩別れのような形で別れ、お父さんは伊豆へ帰るも義時は鎌倉に残り続けました。

 

その後も武勲をたて、基本的に将軍の一番近くで警護を任されていました。

源頼朝亡き後は、跡を継いだ2代目頼家の独裁を抑えるべく結成された13人の合議制に参加します。

 

そして、3代将軍に実朝を擁立するために父親の時政と暗躍しました。

お父さんとはすぐに対立し、時政は伊豆に追放され、北条義時が代わって権力を得ます。

 

有力な武将をつぶしてその地位を得ていくことで、北条氏の力は増していったのだとか。

実朝亡き後も北条義時は権力を持ち続け、後鳥羽上皇と対立したことで朝敵となっていきます。

 

承久の乱で後鳥羽上皇を倒し、さらなる地位を確立するも、その後も精力的に活動しますが最終的には62歳で死因は心不全でこの世を去ったと言われています。

北条義時の最後の生涯について

北条義時の、最後の生涯を紹介します。

 

晩年は、自身が擁立した鎌倉幕府3代将軍・源実朝の首をとるという疑惑が出てしまいます><

実朝は、鶴岡八幡宮で右大臣の拝賀の際に帰らぬ人になりますが、本当であれば当日実朝と一緒に太刀持ちをするはずだったと言われています

 

ですが、北条義時は急な体調不良を訴えて別の人に依頼しているのです。

そして、交代した太刀持ちは実朝と共に首をとってしまいます。

 

事実は不明で黒幕に関しても何人も候補がいるのですが、実際は北条義時は近くにいたけど将軍を助けられなかったことを隠すために嘘をついていると言われています。

 

当時の記録ってそんな感じですよね。

 

実朝亡き後は頼朝の遠縁の親戚である藤原頼経を将軍としますがまだ1歳でした。

姉の北条政子と協力しながら、補佐する形で北条義時は幕府の政治のにさらに関与しています。

 

そして承久の乱を終えると、持っていた官位を辞職し無官になっているのです。

1224年には、自身の健康長寿を願って100日間の泰山府君祭を行ったのだとか。

 

泰山府君祭は冥府の寿命と戸籍を管理するという神を祀るもので、延命を願うお祭りです。

 

 

当時とすれば結構なご長寿のはずですが、北条義時は生涯をかけてまだまだやりたいことがあったのですね。

しかし、神への祈りも虚しく62歳で死因は衝心脚気(ビタミンB不足による心不全)で天国に旅立ったと言われています><

北条義時の武勇伝について

北条義時の、武勇伝を紹介します。

10代後半の青年期から戦に参加していて、後世に名を轟かせる功績をいくつも挙げています。

 

1180年に頼朝の挙兵に応えて父親と兄と戦に参加し、兄を失うもその後の富士川の戦いに勝利しました。

北条義時はその功績から、翌年には頼朝の寝所を警護する「家子」に選ばれています。

 

この家子は頼朝の個人的な側近とされ、全部で11人しかいないエリート集団です。

その家子の中でも義時は専一と言われていたそうですから、頼朝からの信頼は一段と篤かった事が分かりますね。

 

1185年には葦屋浦の戦いで武功を建て、奥州合戦にも従軍しています。

1190年には右近衛大将の随兵7人に選ばれるなど政治の中心に身を置きます。

 

2代将軍頼家の家臣となり、13人の合議制に参加すると「比企能員の暗殺と比企氏滅亡・頼家の追放(修善寺)・頼家を帰らぬ人にする」など次々と手柄を立てました。

 

 

頼家襲撃については諸説ありますが、「愚管抄」や「増鏡」などの書物には義時の手勢による暗殺と描かれているのだとか。

そして、北条義時は頼家を追放して実朝を擁立したことで義時は相模の守となります。

 

その後は、以下のような武勇伝(武功)があります

  • 父親の北条時政を追放
  • 平賀朝雅のを討つ
  • 宇都宮頼綱を謀反で出家させる
  • 和田義盛を制圧

 

 

北条義時は、やがて右京大夫や睦の守と言った役職を得ていきます。

ここまで行くと武勇伝というよりは、戦国武将達の襲撃記録のような感じですが当時の様子は「吾妻鏡」などの文書で記されています。

北条義時の性格について

北条義時の、性格を紹介します。

源頼朝からの信頼がとても高かったので、可愛がられていました。

 

頼朝は、北条義時のことを「他日必ず子孫の補佐たらん(いつか必ず私の子孫を補佐する人物になるだろう)」・「義時をもって家臣の最となす」と称賛していたのだとか(*^^*)

 

家臣の最高峰が北条義時という事ですから、武力だけでなく知力もあり、忠義に篤い人物だったのでしょう。

北条義時の性格は、勝ち残るほうにつくことに長けているという事です。

 

これは先のことを読む力があるという事でしょう。

不利だと思われた源氏について平家を滅ぼし、幕府を築き始めたときから義時は常に強い方に味方しています。

 

平家一族を根絶やしにするだけでは飽き足らず、お墓の場所を探し当てて骨まで燃やしつくしたかもしれません。

 

北条義時は戦だけでなく平時から政治や人の動きを見て知って、私情を挟まずん判断できる力があったのですね^^

現代なら、会社員であれば相当な切れ者で生涯に渡って出世街道まっしぐらでしょう。

 

また、戦では武勲を立てていますから、剣の腕前や馬の扱いにも長けていたのだとか。

承久の乱では司令官としても活躍していました。

 

北条義時が悪人と思われがちですが、ここまで何でもできる人だと恐れた周囲が陰謀とか襲撃を企みそうな気がしますね。

 

 

北条義時のまとめ

北条義時の死因は、心不全という病気だと言われています。

承久の乱で天皇を配流にしたりしたことで、天皇制を重視する明治の頃から逆臣として描かれています。

 

 

もともと、北条家自体が戦国武将の襲撃などを多く行ってきたことで北条義時は生い立ち~生涯まで暴君と言われていますが、実際は身内を守るための行動が歴史に影響を及ぼしたとする人もいるのだとか。

 

源氏の影には北条氏あり。

そんな風に言われるほど知略に富んでいたのでしょう。

 

鎌倉幕府を1から作って支えた一員ですから、その功績は評価されて良いのではないでしょうか。

最近では再評価されてきていて、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でさらに注目されています。

 

少しでも良い評価になれば良いですね。

脚本が三谷幸喜さんですから、より人間臭い裏・表も描き分けてくれるのではないかと期待しています。

 

北条義時の死因が凄い?お墓の場所はどこ?生い立ち~最後の生涯について

についてまとめてみました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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