ユージンスミスの顔画像(写真)!若い頃の生い立ち~生涯は?カメラ作品について

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ユージンスミス氏は「とても偉大なドキュメンタリー写真家の一人」と言われています。

 

顔画像(写真)や、若い頃の生い立ち~生涯などについて気になる人はたくさんいるでしょう(*^^*)

 

 

そんな偉大なドキュメンタリー写真家のユージンスミス氏は、日本にとてもゆかりのあった写真家でもあるのですよ。

日本の公害病の一つ「水俣病」を世界に発信した写真家としても有名です。

 

 

その凄い功績は、ジョニー・デップ主演の映画「MINAMATA-ミナマタ-」で見ることができますよ。

 

今回は、ユージンスミスさんの顔画像(写真)や、若い頃の生い立ち~生涯についてとカメラ作品などについてご紹介していきます。

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ユージンスミスの顔画像(写真)!

ユージンスミスさんの、顔画像(写真)をご紹介します。

 

私が見た姿は、撮影中のものでカメラを構えていました(*^^*)

あごひげが蓄えられていて、ダンディーな雰囲気でとても素敵な感じがします^^

 

映画のポスターのジョニー・デップ氏と本当によく似ているのですよ

 

彼は以前からユージンスミス氏にあこがれを抱いていたという情報があります(*^^*)

 

生前のユージンスミスさんを良く知る人とも親しくしていたそうで、さまざまなエピソードを聞いたうえでの役作りの姿だと思います。

 

ですが、実際に知っていた人たちからも「本物そのもの」と称えられたとか(*^^*)

 

顔立ちだけでなく、たたずまいも似ているそうですから、ジョニー・デップ氏は本当にユージンスミスさんをリスペクトしていたのでしょうね。

 

 

ユージンスミスさんは、若い頃からお父さんのことや、戦場での悲しみが身に染みているためなのか、撮影の対象となる人たちとの交流も欠かさず、写真撮影よりも交流する時間の方が多かったと言われています。

 

それらのエピソードを見れば、近寄りがたい人ではなく、とても温かい人だったのでしょうね^^

ユージンスミスの若い頃の顔画像(写真)は?

ユージンスミスさんの、若い頃の顔画像(写真)を調査しました。

 

昔から、カメラを持ち新聞社に写真を買ってもらっていましたが、その時期は世界大恐慌のあとでした。

 

そのため、ある意味「仕事」としての写真は撮っていたけれど、自分を被写体とする余裕がなかったのでしょう><

 

そして、第二次世界大戦に従軍カメラマンとしてサイパンや沖縄に行っています。

 

20代後半での沖縄戦で、迫撃弾の爆風を受けて全身大やけどをしています><

 

 

約2年間リハビリに専念してましたが、戦場の兵士や住民の姿を撮影することに精一杯だったと言われています。

 

ユージンスミスさんの、若い頃の顔画像(写真)が少ないのも戦争に行っていたりしてプライベートの時間が少なかったのも影響あるでしょう

 

それと当時は今とは違い、簡単にプリントアウトもできない時代でもありましたから、自分を写すということを考えていなかったはずです。

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ユージンスミスの若い頃と現在の顔画像(写真)を比較!

ユージンスミスさんの若い頃と、現在の顔画像(写真)を比較しました。

 

映画「MINAMATA」主演のジョニー・デップは本当にそっくりですよね(*^^*)

 

 

あえて、ユージン・スミス氏に顔を似せていくスタイルで撮影していて、かなり気合を入れて挑んだ映画なんだとか^^

本当に、ポスターのジョニー・デップさんとユージンスミスさんの顔画像(写真)は良く似ています。

 

逆に言いますと、ユージンスミスさんの若い頃は、ジョニー・デップ氏と同じようにイケメンだと言えますね(*^^*)

 

ユージンスミスさんの、若い頃の顔画像(写真)は少ないので、比較もちょっと難しいのですが彫の深いハンサムな男性です^^

 

そして、お年を召した晩年のお顔もとてもダンディーなお顔ですよね。

ユージンスミスの若い頃の生い立ち!

ユージンスミスさんの、若い頃の生い立ちをご紹介します。

 

1918年12月30日に、アメリカ合衆国のカンザス州ウィチタで生まれました。

母親の祖母が、インディアンのポタワトミ族の血筋だと言われています(^^)

 

 

そしてユージンスミスさんの、父親は小麦商を営んでいたんだとか^^

ですが、その当時起こっていた世界大恐慌で破産してしまい、帰らぬ人となってしまいました(T_T)

 

ユージンスミスさんは、人間の命や人助けに興味がありボランティア精神溢れる心優しい男性だったとか。

少年のころは、大恐慌の影響もあり、とても苦労をされていたのでしょう。

 

ご自身のお父さんを失った悲しみは、その後の写真の撮影にも多大な影響を与えたのだとか><

 

ユージンスミスさんがカメラを持ち写真を撮り始めたのは、写真家を目指していたお母さんの影響があったんですって。

 

高校生になるころには、地元の新聞社に定期的に写真を買ってもらっていたとか。

とても若い頃から、ジャーナリストとして活動していたのですね^^

ユージンスミスの生涯をご紹介!

ユージンスミスさんの、生涯をご紹介します。

 

若い頃からの生い立ち情報として、写真家として「人の生活・喜怒哀楽そのもの」を、世界に発信するために撮影してこられているので決して楽しい日々だったとは言えないでしょう><

 

 

私達がカメラに収める風景は、「楽しいもの・素敵なもの」ですよね(*^^*)

ですが、人の暮らしは楽しいものや素敵な物だけではありません。

 

ユージンスミスさんの写真(画像)は、つらくて悲しいことも、目をそらさずに見つめてきた人だからこそ写せる風景でしょう。

 

 

彼の生涯は、激動の時代の流れの中にあったということもありますが、そんな時代の流れの中でも、自分だけではなく、人々の喜怒哀楽を写し残せる写真家でした。

 

ユージンスミスさんの生涯まとめ

  • お母さんの影響で写真家を目指すようになる
  • 第2次世界大戦に参加してサイパン・沖縄・硫黄島へ戦争写真家デビュー
  • 1945年5月=沖縄戦で迫撃弾の風圧で全身を大怪我する
  • 2年入院生活するが後遺症に悩まされる
  • 1947~1954年=雑誌「ライフ」でフォト・エッセイに取り組む

 

  • 1957年=マグナム・フォトの正会員に
  • 1961年=日立製作所からの依頼でPR写真を撮るために来日
  • 1970年=富士フイルムのCMのインタビューでアイリーン・美緒子・スミスと出会う
  • 1971年=来日・日本で婚姻届けを提出
  • 1971~1974年=熊本県水俣市に滞在して、水俣病と患者やその家族に取材や撮影を行った。

 

  • 1972年=千葉県のチッソ五井工場を訪問した時に、強制排除に遭遇し、暴行を受け脊柱と片目失明の重症を負った(カメラも破壊されている)
  • 1974年=アメリカ(ニューヨーク)に帰国
  • 1975年=写真集「MINAMATA」英語版を出版。その後に離婚
  • 1977年=脳溢血で倒れる
  • 1978年=発作を起こして天国へ

 

こうしてみると、激動の時代を経て、高度成長期の日本にとても深いかかわりがあったことがわかりますよね^^

 

 

最初は、戦争のための来日でひどい重症を負って障害も残ってしまいました><

それでも再び来日して、日立製作所からの依頼や、水俣病に向き合い撮影や取材を続けています。

 

 

ユージン・スミスさんは千葉で再び、大きなケガを負い後遺症にも苦しみましたが、それでも患者や家族に寄り添い写真を撮り続けました。

 

そして、水俣病という公害病を世界に発信するカメラマンになったのです。

ユージンスミスのカメラ作品について

ユージンスミスさんの、カメラ作品についてご紹介します。

「闇のような黒と白のメリハリ」と言われています。

 

 

そして、リアリズム(写実主義・現実主義)を排除していたんだとか。

 

そのため、トリミングで被写体を強調したり、重ね焼きなどの技法も用いていました。

この時代に、トリミングをして違和感をなくすなんてすごい技術ですよね。

 

その多くは「暗室での作業」がポイントだったと言われています

助手として参加していた人も、暗室作業で何枚もプリントしても、なかなかオッケーがでないこともあったんだとか><

 

 

かなり悪戦苦闘していたようで、知っている限りの技術を駆使した100余枚の中でも、許可されたのはたった一枚だけだったという話もあります。

 

私は、写真に関しては素人ですし、今の世ではパソコンを使って画像加工する人が多いと思います。

暗室での作業って大変なのですね(^^;

 

ただユージンスミスさんは、写真を通して「ジャーナリズムの責任」を果たすという思いがありました。

それは「写す人たちに対しての責任」と「読者に対しての責任」です。

 

人間の素顔」を写す写真家としてもとても有名ですね。

カメラで写す風景は、良い面・綺麗な面だけではないということを伝えてくれます。

 

 

いいところばかりではなく、人目からも避けたい部分も伝えていくという、ジャーナリズムの責任をしっかり考えていました。

 

そして、それを実行するために、写真の現像加工の技術(表現)を模索していたからこその「黒と白のメリハリ」なのでしょう。

 

ユージンスミスさんのカメラ作品からは、人々の暮らしや町の様子などが伺えます。

 

日立の工場だけでなく、日立の町の暮らしも撮影してきました。

そして水俣では、患者さんや家族に寄り添い、長い時間をかけて患者さんや家族の心に寄り添い撮影しています。

 

カメラ作品に込められた思いの受け取り方は、人それぞれでしょう。

ですが、カメラ作品に込められた思いをくみ取り、考えていくことは見る人(読者)にしかできないことです。

 

ユージンスミスさんのカメラ作品は、テレビの映像や文章だけではない部分を、感じて考えることの大切さを伝えてくれる作品だと感じました。

 

 

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ユージンスミスのまとめ

ユージンスミスさんは、父親を失ってから命の大切さに気づき他人の生涯やケアに大きな関心を持っていたと言われています。

 

若い頃の顔画像(写真)を見ると、普通にカッコイイ男性です。

人生に何か意義を持っているかのような風貌でカメラマンとしての使命感みたいなものを感じました。

 

 

後遺症で苦しんだ経験と、人災ともいえる病気で苦しむ人たちの姿をリンクさせていたのでしょうね。

 

生い立ち情報から自分のことよりも、まず人助けを優先したり風景や人を撮りまくるくらいのカメラ好きなことがわかりました。

きっと、世界の発展の陰で起こる悲しみを、見過ごすことができなかったのではないでしょうか。

 

 

ユージンスミスの顔画像(写真)!若い頃の生い立ち~生涯は?カメラ作品について

についてまとめてみました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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