村岡敬三さんは、明治から昭和にかけて活躍した翻訳家である村岡花子の夫です。
若い頃の顔画像(写真)は、とてもハンサムなので私は思わずずっと見惚れてしまいました(笑)
ですが、死因は病気なのでとても可哀想です><
結婚した嫁(妻)の村岡花子と言えば、「赤毛のアン」「王子と乞食」など今でも長く翻訳した作品が愛されていますね(*^^*)
翻訳だけでなく、村岡花子は、ラジオ番組のDJやヘレンケラーの来日の際も通訳をしたそうですから、かなりの活躍ぶりですよね。
今よりもっと女性が働くという事に風当たりも強かった時代に、働く奥さんを支えたのは、夫の村岡敬三です。
今回は、村岡敬三さんの若い頃の顔画像(写真)や、死因が凄いのかと妻(嫁)との作品集などについてご紹介していきます。
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目次
村岡敬三の若い頃の顔画像(写真)!
https://twitter.com/ystk_yrk/status/1353370870245249025?s=20
村岡敬三さんの、若い頃の顔画像(写真)をご紹介します。
村岡敬三と花子が結婚をした時の写真がありました。
この時村岡敬三は、32歳ですが見た目は、年齢よりも若いですね^^
着ているスーツも仕立てがよく、とてもオシャレです(*^^*)
上品さや育ちの良さが、写真から見てもよくわかりますね。
この頃、村岡敬三さんは、父が営む福音印刷合資会社で銀座支店の責任者でした。
後に、結婚した妻(嫁)となる花子との出会いはこの頃で、敬三が花子の訳した翻訳原稿を読んだことがきっかけだったのです。
原稿が出会いにつながるなんて、なんだかロマンチックですね(*^^*)
出会いのきっかけとなった福音印刷は、元々聖書やキリスト教関連の本を印刷していたと言われています。
その業界では結構有名だったようで、敬三の父はそのことから「バイブルの平岡さん」と呼ばれていたとか( *´艸`)
「バイブルの平岡さん」って、言葉だけで人の優しそうなおじさんが頭に思い浮かんでしまいます。
本社は横浜にあり、東京や神戸西店があったとの事で、かなり景気も良かったのでしょう。
村岡家には六男二女の子供がいましたが、この福音印刷で働いているのは敬三と五男の斎だけで、父譲りの実業家気質の斎に比べ、村岡敬三は、学者肌だったと言われています。
若い頃の顔画像(写真)を見ると、確かに物事を探求して追求したり研究熱心な印象も受けます。
きっと、兄弟で足りない部分を補い合いながら働いていたんでしょうね。
村岡敬三さんの、昔の顔写真(写真)は表情にも知性が感じられますね。
文学や語学にも精通していたそうですから、きっと後に妻となる村岡花子とも勉強についてお互い感性が合っていたのでしょう^^
村岡敬三の若い頃の顔画像(写真)はイケメン?
村岡敬三さんの、若い頃の顔画像(写真)はイケメンなのかご紹介します。
敬三の写真を見ていると、目鼻立ちが整っていて、すこし外国人っぽい顔をしていますね^^
また、身体つきもがっしりしていて、身長も高く見えます。
「イケメン」というと、村岡敬三の若い頃の顔写真(画像)の雰囲気からだと少し軽いような気がしますよね。
ですが、「イケメン」とはもともと、魅力的を表す言葉として「イケてる」と称すようになったことから流行った言葉です(*^^*)
なので、顔写真を見ても、村岡敬三の若い頃はかなり魅力的であると言えますから、イケメンと言えるでしょう^^
現代の、ハンサム俳優たちには、線が細く、スラリとした人たちが多いですよね。
もし、彼らが村岡敬三を演じるとしたら、少し貫禄が足りないかもしれません。
朝ドラ「おちょやん」で、村岡敬三にあたる村岡英治役を演じた鈴木亮平さんは、村岡敬三の顔写真(画像)を見比べてもイメージピッタリですね( *´艸`)
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村岡敬三の若い頃は異性にモテモテだった?
村岡敬三さんの、若い頃は異性にモテモテだったのか調査しました。
イケメンだった村岡敬三は、随分女性にはモテていたでしょう^^
しかし、村岡敬三が結婚したのは28歳の頃です。
当時としては晩婚と言ってもいいと思います。
どうやら、とても仕事が忙しかったようですね。
村岡敬三はさん、高校を卒業してから、父の営む福音印刷に入社します。
福音印刷は、それから7年ほどで、銀座や神戸にも支店を出店するのですが、その銀座店の若き責任者となったのは、他でもない村岡敬三です。
この頃に、がむしゃらに働いて身体を酷使していた事も村岡敬三はさんの死因に繋がっているのではないでしょうか><
そして、顔も良くて仕事もできるという事で、縁談の話は多かったと言われています^^
あろうことか、敬三が病状にある先妻と籍が入ったままの別居中にも、あちこちから敬三には縁談の話が来た事もあったんだとか。
結婚した嫁(妻)がいながら、一緒になりたい女性がいるなんて、これはすごいモテっぷりですよね!
現代では考えられない事ですが、それが普通の世の中だったと言われています。
同じ時代を生きた、村岡花子の「腹心の友」柳原白蓮をご存知でしょうか。
白蓮は「炭鉱王」と称された伊藤伝右衛門の元へ嫁いだのも、伝右衛門が前妻を失ってすぐの事でした。
帰らぬ人になった後は、すぐに山のような縁談が来ていたと言われています。。
今との結婚観の違いを感じますね。
しかし、そんな話が来ても、若い頃からキリスト教に親しんだ村岡敬三でしたから、その話に乗ることも無く断っていたんです。
そんな風に誠実で世間の風に流されないところも、女性達にとっては魅力だったでしょう(*^^*)
村岡敬三と妻(嫁)との作品集をご紹介!
村岡敬三さんと、妻(嫁)の村岡花子さんとの作品集をご紹介します。
二人を引き合わせたのは「モーセが修学せし國」という訳書です。
その出会いから半年で結婚したというのだから、運命的ですね(>_<)
村岡敬三と結婚した嫁(妻)の花子が夫婦になって世に送り出した作品は、今も私たちのそばに残っています。
例えば、「イソップ童話集」「フランダースの犬」「小公女」等々。
一度は聞いたことがある作品です。
中でも有名な作品は、「赤毛のアン」ですね(*^^*)
花子が会社の親友、ミス・ショウが帰国する際に、友情の証にと渡した本が「赤毛のアン」の原書でした。
「いつか平和が訪れたら、日本の少女たちに紹介してほしい」とメッセージが添えられていました。
それが1939年(昭和14年)、第二次世界大戦がはじまる前年ですね。
この時代の多くの人々の死因は、戦争で天国に旅立つ人が多かったんです><
欧米文化排斥の風潮もあるなか、戦時下においても花子は赤毛のアンの翻訳に没頭しています。
よっぽど、「赤毛のアン」の話に感銘を受けたのでしょうね。
時には原稿をもって、防空壕(ぼうくうごう)に駆け込むこともあったんだとか。
そうやって翻訳された原稿は、700枚あまりありました。
その間、村岡敬三さんもずっと花子を支えていたことでしょう。
原書を渡されてから、約13年の月日を経て、平和が訪れた日本にこの本は出版されます。
敬三は、一番に読んだのではないでしょうか。
村岡敬三さんの死因は何?
村岡敬三さんの、死因は何なのかご紹介します。
1963年、75歳で村岡敬三さんは心臓麻痺で、この世から居なくなります><
自宅で夕食を取った後というから、花子やほかの家族もその場にいたのでしょうか。
享年75歳、当時としては長生きの部類に入りそうですね。
妻(嫁)である村岡花子は、死因は違いますがその5年後、敬三の元へ行くことになります><
それも敬三と同じ75歳の時でした。
そんなところにも二人の縁を感じてしまいますね。
縁と言えば、村岡敬三には二人の息子がいました。
この二人の息子もそれぞれ幼くして、天国に旅立っています。
一人は、村岡敬三が若い頃に結婚した先妻との間にできた嘉男です。
先妻が病気になったことで、嘉男は幼くして敬三の兄の十太の所に預けられます。
敬三自身も仕事が忙しく、そばにいてあげることができなかったんですね。
なかなか、家族揃って顔画像(写真)を撮る機会も少なかったんじゃないでしょうか><
その後敬三は、花子と出会い結婚し、嘉男は兄の養子となりました。
しかし、その後起こった関東大震災にて帰らぬ人になるのです。
1923年9月1日、わずか7年の生涯でした。
そして、その3年後、花子との間にできた長男、道雄が病気の為この世を去ります。
道雄の死因となったのは、当時流行していた疫痢という病気でした。
当時は、2歳から5歳の子供を中心に多くみられたそうです。
この時道雄は5歳、そして、天国に旅立った日は、関東大震災からぴったり3年たった9月1日なんです。
悲しいことですが、不思議な縁を感じてしまいますよね。
道雄を失った事は、村岡夫婦にとってとてもショックな出来事でした。
特に母である花子は、長いこと臥せっていたと言われています><
しかし、この道雄を失ったきっかけに、花子は英語児童文学の翻訳の道に入ります。
花子はたくさんある素晴らしい本を、道雄に読み聞かせるように翻訳していたのでしょうね。
村岡敬三は若い頃に離婚歴があった!
村岡敬三さんは、若い頃に離婚歴があった事をご紹介します。
村岡敬三には離婚歴がありました。
花子と出会った時、村岡敬三は先妻と籍が入ったままだったんです>、
世間でいう不倫という状態だったのです( ゚д゚)ハッ!
二人の為に弁解をするわけではないのですが、花子と出会った頃、村岡敬三は、先妻とはすでに3年近く別居していました。
先妻は、結核の病気にかかっており、長く療養していたのです。
先妻の父から離縁してほしいとの依頼もあったといいいますから、お互いに納得して別れを選んだのかもしれません。
そのこともあってか、先妻との離婚はスムーズに進み、花子と敬三は出会って半年余りで結婚、夫婦となるわけです。
いや、それでも半年というのは、かなりのスピード婚ですよね(;´∀`)
村岡敬三さんは、若い頃に花子との恋の最中に送りあったラブレターには故意に焦がれる気持ちと葛藤が現れていると言われています。
その数は出会いから結婚までの半年間で70通以上あまりあるそうです。
70通だなんて、かなり情熱的ですよね。
今のように電話もメールもない時代でしたから、月に平均すると10通以上の手紙のやり取りというのは、結構大変なものだったと思います。
1通もラインのように短い一言ではなく、長い長い文面だったでしょうから(>_<)
「道ならぬ恋」というと、ついつい不幸な行く末を想像してしまうのですが、村岡敬三と花子は夫婦として生涯添い遂げます。
もちろん、長男を失くしたり会社が倒産したりと色々辛い出来事があったようですが、それは夫婦の絆を深くする出来事であり、分かつものではなかったようです。
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村岡敬三の若い頃のまとめ
村岡敬三さんの、若い頃の顔画像(写真)を見ると、イケメンでとても魅力的な男性でした。
後に、結婚して妻(嫁)となる花子と出会ったのは、まだ先妻と籍が入っていた時期です。
道ならぬ恋でしたが、運命が彼らを夫婦とし、二人は一生添い遂げます。
後に妻となった村岡花子は、今でも誰もが知っている英語児童文学を世に送り出した女性です。
その陰には、敬三の支えがあったからと言っても過言ではありません。
また、村岡敬三が関東大震災で兄弟や、子供、そして会社をも失った時も、経済的にも精神的にも敬三の支えとなったのは、妻の花子でした。
二人はお互いに支えあい、助け合う夫婦だったんですね。
村岡敬三の若い頃の顔画像(写真)!死因や妻(嫁)との作品集が気になる!
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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