渋沢栄一氏は、2024年に紙幣が一新され、福沢諭吉に代わって1万円札の顔となる偉大な人物です(*^^*)
資産(財産)や年収はいくらなのかや、実家は金持ちだったのかなど気になる方はおおいのではないでしょうか。
日本を代表する経済人でありながら紙幣になることがなかったのは、昔は紙幣の偽造防止に真似しにくい髭の人物を採用することにしていました。
髭が生えていないかった、渋沢栄一氏は何度も「紙幣の顔」候補に挙がりながらも選ばれなかったと言われています。
しかし、経済の父親と言われ、明治以降の日本の経済の基礎を築き、今なお大企業として残る会社をいくつも設立して日本の資本主義を定着させた凄い人物です。
まさに新紙幣の顔にふさわしい人物でしょう^^
やっと紙幣の製造技術や、時代が渋沢栄一氏に追いつきましたね。
会社をいくつも持っている、と聞くとお金持ちのようですが実際はそうではなかったり、妻と妾が同じ家で生活していて女性関係が派手だったりと色々なエピソードがでてくる人物でした。
今回は、渋沢栄一氏の資産(財産)や年収はいくらなのかや、実家は金持ちなこととお札で愛人や女性関係を構築していたのかなどについて、ご紹介していきます。
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目次
渋沢栄一の資産(財産)はいくら?
収蔵庫より。
明治44年の時事新報付録「全国五十万円以上資産家表」に、時の人・渋沢栄一を見つけました。
大隈重信もいます。 pic.twitter.com/z1LucLZ026
— ニュースパーク(日本新聞博物館) (@NewsparkPR) March 16, 2021
渋沢栄一氏の、資産(財産)はいくらなのかご紹介します。
実家は畑作や養蚕・藍葉の問屋をしていた商家で、近所ではお金持ちとして知られた家でした。
7歳で論語を読み、13歳で取り扱う藍葉の目利きもして見せたという商才を発揮し、ヨーロッパ視察などを経て日本の金融業界を現在の形に発展させる礎を築いた人物です。
渋沢栄一氏は、2024年に新紙幣に採用されることが決まっていますし、生涯を通じてお金と縁のある人生だったのでしょう。
同じように、経済の発展に尽力した岩崎弥太郎氏は、財閥を持ち資産は渋沢栄一氏を凌ぐと言われています。
詳細な資産の記録等は不明ですが、会社を設立してはその利益で次の会社を興すということを繰り返していた渋沢家は、決して財閥ではなかったと言われています。
自分一人が儲かるよりも、社会全体が儲かって、みんなの生活が豊かになることを優先していた渋沢栄一さんですから、今の自分よりも将来の子孫が資産(財産)をたくさん持ってお金に苦しまないような社会を望んでいたのでしょうね^^
資産(財産)は、何十億円もあって億り人だったことは間違いないでしょう^^
そういった意味では、高度経済成長を迎えて大きく日本が発展していく様子は渋沢栄一氏にとっては自身の希望通りだったのではないかと思います。
渋沢栄一は資産(財産)を子供に相続した?
渋沢栄一氏は、資産(財産)を子供に相続したのかご紹介します。
経済発展に尽力した凄い人物ですが、金儲けだけに走ってはいけないと論語に基づく商業理論を大切にしていたことでも知られています。
設立に携わった会社は500社を超えると言われています。
その他にも、大学や病院など慈善事業を含む色々なことに関わっていますが、以下で代表的なものをご紹介しましょう。
【渋沢栄一が関わった企業・病院・大学などの事業施設】
- 東京電力
- 東京ガス
- 帝国ホテル
- サッポロビール
- りそな銀行
- 三菱UFJ銀行
- 一橋大学
- 早稲田大学
- 聖路加国際病院
- 日本赤十字社
お金儲けだけでもダメ、慈善事業だけでも成り立たない、両方が揃うことが大切であるという理論を100年以上前の明治に理解し実践していたのですから、やはりすごい人物ですよね(*^^*)
企業設立に関与しまくった渋沢栄一氏は、自身で会社を経営するのではなく、仕事が軌道に乗ったら人に譲って違う企業のために動くということを繰り返しています。
なので、自分が大株主になるわけでなく、財閥を作って囲い込むようなこともなく、経済を回すことを大事にしていたそうですので、多くの人がお金を手にすることが出来ることを大切にしていました。
お金を貯めるばかりじゃなく、社会のためになる使い方で「お金を散ぜよ」と言っていたと言われています。
渋沢栄一氏は、資産をいくらでも貯めることはできたはずです。
当然、子供や家族の為にも貯金しているかと思いきや、事実は違いました。
元々、実家は豪農である程度裕福な生活をしていましたが、渋沢家はとてもお金持ちというわけではなかったと言われています。
渋沢栄一氏は長男を廃嫡しているため、栄一氏の事業を引き継いだのは長男の子供であったりと後継者もいませんでした><
なので、資産(財産)を増やしたり、財閥のような大きな組織を作る、ということは一切していないのです。
そんな渋沢家は4男3女で、長男は廃嫡されているが、「次男・三男・末弟」はともに取締役に就くなど年収も高い重役となっています。
これは、渋沢栄一氏が設立に携わったのちに譲り受けた人々が成功を収めて大物財界人になっていく中で、「お世話になった恩返し」の意味を込めて、渋沢栄一の子どもを預かるような形で企業で育て上げていった結果と言われています。
お金を子供達に相続したのではなく、人脈を子孫に残したという点では、お金に換算できないプライスレスな相続品でしょうね^^
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渋沢栄一は資産(財産)を家族に贈与した?
渋沢栄一氏は、資産(財産)を家族に贈与したのかご紹介します。
妾との子供もいたため、自分が天国に旅立った後に親戚・子どもたちが財産管理でもめることを心配して、「澁澤同族会」という会社を設立します。
財産管理のためだけにひと企業作っちゃうあたりがさすがですね(*^^*)
この澁澤同族会が、渋沢栄一氏のみならず一族の株式や資産を会社の保有物としたことで、築き上げた財産(資産)は独占されずに一族みんなで分けることが出来たんですね。
やはり誰か一人が得をするのではなく、家族みんなが平等に財産を得られるようにするところが、一貫しているなーと感じます。
渋沢財閥と言われることがあるので財閥を持っているように勘違いされがちです。
これは第二次大戦後にGHQの政策で資産を独占する財閥解体を進める中で、渋沢同族会を間違って財閥と認識していたことが原因でしょう。
解体のために持ち株等を調べた結果、渋沢倉庫の「26%の株以外」は数パーセントの株の保有しかなく、財閥ではないと気付かれたと言われています。
財閥を持たずにいたからこそ、戦後も資産額を減らさずに変わらず活動できたのですから、渋沢栄一氏の考え方は先を見通していたんだなーと感じますね。
渋沢栄一の年収はいくら
渋沢栄一氏は、お金稼ぎの神様と言っても過言ではないと思いますが、年収はいくらなのかご紹介します。
よく昔のお金を現在の価値に換算するとというのを見ますが、明治時代のころの給料事情から考えると、庶民の1円は今でいう2万円相当の重みがあったと言われています。
当時の物価は、「アンパンが1銭(今の価値で200円)・うどん、そば2銭(400円)・カレーライス5銭(1000円)」くらいの値段(価格)ですから安いと思ってしまいますよね。
ですが、物価が今と違うので、現在の貨幣価値やサラリーマンの平均年収をそのまま換算してはいけません(笑)
また、明治時代の給料で色々な職業の月給・年収はいくらになるかご紹介します。
- 学校の先生、警察官=月給8円(80000円)
- 石工(技能労働者)=月給10円(100000円)
- 国会議員=最高額は年収800円(8000000円)
- 総理大臣=年収12000円(12000000円)
公務員は、等級別に給料が分かれますが、凄い年収の差が激しいですよね。
渋沢栄一氏の職業は教員でも議員でもないので正確には不明ですが、一般的な給料で見ると国家公務員が50円、銀行員が20円前後ということなので、「月20~30円程度の収入」はあったでしょう。
現在の貨幣価値に換算すると月収100万円くらいで、年収が「1200万円」ほどです。
物価に対して高いのかも難しいところですが、今の物価でこの給料ならもう文句ないですし十分お金持ちですよね(*’ω’*)
ボーナスや特別手当のようなものがあればもっと稼げるでしょう。
実際のことろは分かりませんが、会社を興すのにもお金はかかりますし、これくらいはもらっていないと厳しいのかなーとも思いますね。
渋沢栄一の実家は金持ちで資産(財産)が凄い!
渋沢栄一氏の実家は、金持ちで資産(財産)が凄いです。
渋沢家は埼玉の深谷に17軒あり、家の位置によって中の家や前の家、新屋敷などと区別されていたと言われています。
宗家は中の家だったそうなのですが、栄一が産まれる前から財政は傾いており、それを立て直したのが栄一氏の父親だと言われています。
17軒ある渋沢一族で2番目に裕福と言われるところまで家を建て直した父親の遺伝か、栄一も小さい頃から商才がありました。
実家は、金持ちで藍玉の製造販売と養蚕を兼営していて野菜も作るような富農と言われる家でした。
藍染にも使われる藍玉の原料の藍も、絹の原料となる蚕も、貴重な品ですから、それらを扱い管理するだけの資金と技術を持っていた渋沢家は裕福だったといえます。
だだ、実家に莫大な資産(財産)が保管されていたのかというと、話は別です。
渋沢栄一氏はある程度、自宅で「衣・食・住」には恵まれていたでしょうが、お金の蓄えが一杯あったわけではなかったので、お金に対してストイックな考え方をする環境に置かれていたのでしょう。
渋沢栄一はお札のお金で女性関係を構築?
渋沢栄一氏は、お札のお金の力で愛人・妾など女性関係を構築していたのかご紹介します。
子供は4男3女ですが、妾が複数人いたと言われています。
最初の妻は従妹の「尾高千代」といい、5人の子を授かりますが、うち2人は幼い頃に失ってしまいます。
そして妻の渋沢千代もコレラで42歳という若さで帰らぬ人になってしまいます><
その後、渋沢栄一氏は最初の奥さんを失った翌年には、「伊藤兼子」という女性と再婚しました。
再婚同士の二人の間に4人のお子様を授かります(*^^*)
また、渋沢栄一は最初の妻の弟にあたる尾高平九郎を養子として迎えているので、10人の大所帯だったと言われています。
一方で妾との間にも子供を作っていた渋沢栄一氏は、妻と妾の子を合わせると20人以上子供がいたことになるようで、そこからさらに孫へとなっていくと、子孫は優に100人を超えるとか(;’∀’)
今の時代だったら、いかに大物と言えども袋叩きでしょうね(笑)
子供の認知とかどうしてたんでしょう。
妾の女性も自宅に一緒に暮らしていたり、別邸に囲っていたりと様々ですが、庶子である子供たちも大企業にいる渋沢栄一氏の親族に嫁いだり大企業に勤めていたりとあまり不自由なく生活できているようです。
財産(資産)を、子どもや子孫達の為に分け与えていたら、「遺産相続金問題」が出て凄いトラブルに発展しそうですが、現在までにそのような金銭トラブルは起きていません。
家系図をすべて辿ることはできませんが、曾孫、玄孫のその先の来孫まで有名人がいるというのですから、子孫は100人どころではないでしょう。
お金の力で女性関係を築いていたとしても、渋沢栄一氏は極悪人ではないし、それだけの人を養えるだけの資産と働き先として協力してくれる人脈があったことは間違いないでしょう^^
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渋沢栄一の資産(財産)のまとめ
渋沢栄一氏の資産(財産)は、何十億円もあったでしょうが500もの企業・病院・教育施設などの設立や資金提供に携わっているので、現金はそんなに持ち歩かなくて、投資でお金を増やしたり資産管理・運用していたと言われています。
経済の父と言われていますが、実家は莫大なお金持ちというわけではありません。
渋沢栄一氏は、お金を使って経済を循環させ続けることにお金を回す資産家でした。
収入を次のビジネスの資金に回すという稼ぎ方は今でも行われていますが、凄いと思ったのは成功したビジネスを手放せることです。
財閥を作らず大株主にもなっていない立ち位置は、当時の財界ではかなり珍しいでしょう。
そんな風にたくさんの企業を設立してくれたおかげで今の日本は大きく成長し、渋沢栄一の生きた時代よりも生活水準などは上がっていて、賃金の格差なども是正されてきているのではないかと思います。
お金儲けを悪いことととらえず、人の役に立つことに生涯を捧げた功績はとても偉大なものと改めて実感しました。
完璧人間かと思えば女性関係は派手だったりと、人間らしい一面もしっかりと持ち合わせている人物でした。
子孫は日本中で生活しています。
渋沢栄一の資産(財産)や年収はいくら?実家は金持ち!お札で女性関係を構築?
についてまとめてみました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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